発行者 現代社

東京都杉並区下高井戸1-34-9
万国の労働者団結せよ!

革命的労働者協会
(社会党・社青同 解放派)

【解放 954号 (2010/4/1) 基調 】【 以下、無断転載・無断作成 】


プロレタリア統一戦線の一翼としての革命的学生運動の飛躍を

革命的労働者協会学生委員会



 全国の戦闘的学生諸君、とりわけ新入生のみなさん。
 革命的労働者協会学生委員会は、時代が要請する飛躍を何がなんでもなしとげ、プロレタリア共産主義革命の大道をつき進む。 「新たな密集」の闘いにこたえ、革命的内部糾弾闘争の格闘をわがものとして闘う。 獄中の同志たちは、日本階級闘争の歴史を塗りかえる闘いを日々闘い、連続決起している。 その闘いは、「最後の治安の砦」である監獄の中の支配の秩序を切り崩し、獄中人民の共感と合流をかちとっている。 全世界的な恐慌情勢は、数百年の歴史的過程を経た資本主義が、 いよいよ全世界のプロレタリアートによって打倒−転覆−革命されようとしていることを ハッキリとさし示している。
 世界的規模で進む革命情勢は誰にも止められない資本主義社会の支配者である帝国主義ブルジョアどもこそが、 自らの支配の危機を敏感に察知している。中東・パレスチナで、南朝鮮で、ギリシャで、米帝足下で、 労働者階級の実力闘争・武装闘争が炸裂している。 そこでは、命がけの血みどろの闘いが、だがしかし、 人ひとりが自らの解放と全世界労働者入民の解放をともにかちとろうとする生き生きとした闘いがくり広げられている。 それらの闘いにわれわれはなんとしても合流する。戦闘的学友がともに闘うことを心から訴える。

革命的労働者協会の闘い

 革命的労働者協会(革労協)は一九六九年に結成された。 われわれが実現すべき革命の性格は、私有財産を廃絶し、一切の支配・隷属関係(と官僚主義・特権)を廃絶するプロレタリア・共産主義革命である。 私有財産の廃絶とは、労働の隷属状態すなわち生産手段を所有する階級による所有しない階級に対する支配、 ならびにこれにもとづく社会的諸関係=制度の廃絶であり、「自分たちの労働を自分たちの共同で『支配』する」 (『結成宜言』)ことである。

 「革命」に「共産主義」をつけるのは、「共産主義を特徴づけるものは、所有一般の廃止ではなく、ブルジョア的所有の廃止である。 ……この意味で共産主義者は、自分の理論を私的所有の廃止という一語に総括することができる」 (マルクス『共産党宣言』一九四八年)という意味をこめてである。「革命」に「プロレタリア」とつけるのは、 「今日ブルジョアジーに対立しているすべての階級のなかで、ひとりプロレタリアートだけが、真に革命的な階級である」(同)からである。 すなわち、プロレタリアは無所有であ」り、 「プロレタリアは、自分自身のこれまでの取得方法と、 それと同時にまたこれまでの取得方法の全体を廃止することによってのみ、はじめて社会的生産力を獲得することができる」 (同)からである。

賃金労働制度を粉砕しよう、ブルジョアジーを打倒しよう

 「プロレタリア」とは何か。「無所有」、つまり生産手段を持たない階級であり、 自らが生存するためには自分の労働力を切り売りするほかはない階級であるが、自分の労働力が「商品」として、 労働市場で資本家によって買われるのは、その「商品」が資本家にとって利潤をもたらす限りにおいてである。 利潤とは何か。生産手段を持たない労働者が、資本のもとでただ働きを強制されることで生じる「剰余価値量」が転化したものである。 「価値量」と言っても、秤や物差しで計れるものではない。社会的に規定される概念であり、社会的存在である人間のみがそれに規定され、幻感され、端的には「物神」となった「貨幣」や「商品」から自由でないブルジョア社会に生きる人間が翻弄されているブルジョア的な概念である。「ただ働き」といっても、資本家どもは「労働者には対価を払った」と強弁する。あるいは「不況で会社の経営が悪いので賃金を下げる」と居直る。実際、会社が倒産し労働者はいきなり路上に投げ出され、家を失い、家族が離ればなれとなり、何よりも「人間としての誇り」や「生きる望み」を押しつぶされる。資本主義は「自殺」という形で労働者人民を日々虐殺している。日帝においてはいまや毎年約三万人である。 「精神的苦悩」「肉体的苦痛(生活苦)」が労働者人民に集中している。

 「自殺」だけではない。過労死・労働災害・職業病は言うにおよばず、「自然災害」と呼ばれるものも、 巨大ハリケーンが米帝足下でマイカーを持たない労働者の命を大量に奪ったように、階級社会においては、必ず矛盾が労働者階級に集中する。 米帝は、労働者階級の反乱を恐れ、オバマが「国民皆医療保険制度」を導入した。 だがこれで、無保険の労働者が「最後は銃弾しかない」と言っていた状況、つまり拳銃自殺しかない状況が解決できるのか。ノーである。 日帝の現在がそれを示している。なぜか。資本主義経済が必ず恐慌に陥るのと同じ理由である。 つまり、資本主義の運動原理、「資本の論理」が「より大きい利潤の追求」である以上、生産現場で資本は「合理化」と称して、 賃金労働をとことん減らそうとするからである。つまり、労働者の首が切られる。代わりに機械(パソコンなどもふくめて)が導入される。 剰余価値から転じるところの利潤は賃金労働者の搾取、ただ働きから生じる。ところが、このもともとの賃金労働が減ることで、 資本主義社会全体の利潤が減る、つまり、利潤率が下がる。 利潤率から導き出される利子率、金融資本家どもの収入源、年金や保険、国債などの利回りの、 また最近社会問題化した駒沢大学などの私立大学の資産運用の利回りなども、すべて下がる。 それは、カネの国際価格、外国為替レートにも影響する。ブルジョアマスコミは、「ギリシャの金融危機、信用危機」を例にしながら、 「日本の国債の信用失墜」「日本崩壊」などとキャンペーンする。 こうして、逆に、ブルジョアどもは、ブルジョアジーの代理人である政府をとおして「消費税」だの「環境税」だの「福祉税」などの名目で さらなる収奪をねらっている。すべてデタラメである。

 「剰余価値」とは、労働力商品の再生産費、労働力商品の「等価」が支払われたうえで、 それ以上の労働が強制される結果生じる「価値量」である。 加えて「合理化」による失業者の増大は労働市場での労働力一商品の価格を引きドげ、 結果、労働者の賃金はその再生産費以下に落としこめられ、労働者は結婚したり出産したりすることすらできなくなる。 少子化社会の出現である。
 こうしてわれわれは、世界的恐慌情勢のなか、大学を卒業しても就職が困難で、奨学金の利子は高くなり、就職できても低賀金にあえぎ、 将来の年金への不安と不信もさることながら、そもそも年金や保険を支払う収入がないという状況に陥れられるのである。

「労働者階級の解放は労働者階級自身の事業である」の革命的復権

 これらのあらゆる矛盾を根本的に解決するには、プロレタリア・共産主義革命しかない。 だが、肝心なのはここからである。 自称・他称の「共産主義者」がくり返し、労働者階級を裏切り、逆に抑圧者・圧政者となってきた事実がある。 とりわけ、スターリニズムという「国で革命は可能」とか「共産主義思想を労働者階級の外部から自分たちが注入する」とか 「生産力の増大が共産主義への条件」などと言う部分が、いかに多くの労働者人民を虐殺してきたことか。 だからこそ、革労協は、社会主義青年同盟・解放派が、 一九六一年に歴史的に復権させた「労働者階級解放の事業は労働者階級自身の事業である」 (『国際労働者協会』)という地平をなかひきつごうとし、その名を自らに冠することで自らが何者たろうとするのかを律したのであった。
 解放派の歴史を、その栄光と限界も両方をひきうけ総括−前進していくものとして、「社会党・社青同解放派」という但し書きをはずさない。 それは、単に労働者に対する資本家やブルジョア国家にょる搾取や収奪を問題にしたのではなく、 資本のもとでの労働者に対する支配と隷属、資本による労働指揮権を問題にした。賃金奴隷者として生きるのではなく、 社会の主人公として、資本主義社会の墓掘人として、労働者解放−全人民解放の戦士として、 生きかつ闘う思想と団結をうち立てようとしたのである。
 そして、いまわれわれは、「社会主義革命」とは言わず、「プロレタリア・共産主義革命」と言うのである。 「社会主義」という表現では、はたしてその「社会」そのものが規定されていないからである。 そして、「プロレタリア解放の闘争」は「プロレタリアの組織」によって担うという闘争方針と組織方針の統一的推進という プロレタリア革命の原則をはっきりさせることである。 戦略と主体の乖離が利用主義・代行主義、そして官僚主義を生み出していく根拠となってきたことを粉砕する闘いが求められている。

ファシズムを粉砕しよう、天皇制をなくそう

 「自身の事業」とマルクスが言った時代と現代では状況が違う。 一八四八年ころにヨーロッパを席巻したプロレタリア革命があちこちで敗北していくにつれ、またとりわけ、 フランスにおいてボナパルティズムが制圧して革命を圧殺したのを痛恨の思いで経験したマルクスは、資本主義社会、 ブルジョア国家の力を「経済学批判」をとおしてとことん暴露しようとした。 『経済学批判』の草稿は「T資本 a資本一般 1商品」で始まり「W国家」や「Y世界市場」をその研究プランに盛りこんでいた。

 それから百五十年、ブルジョアジーは、労働者人民の決起を恐れ、 さまざまな予防反革命政策と分断政策と徹底した治安弾圧と侵略戦争や反革命戦争によって、なんとか支配を延命してきた。 とりわけ、「官僚的軍事的統治機構」(マルクス 一八五二年)を駆使した労働者人民支配と戦争政策は、年金や保険といった 「社会福祉」制度の運用もふくめて労働者人民をブルジョア秩序のなかに縛りつけた。 加えて、公教育制度によって、労働者人民は労働力商品として、つまり工場で一日八時間は黙々と働く人間として訓練・教育され、 「商品の価格は需要と供給で決められます」「税金はみんなの生活を豊かにするため」「校則や法律を守ろう」 「国はみんなのため、税は納めましょう」「法律は国民の生活を守ります、一日の労働時間は八時間です」などの大嘘がくり返された。 挙げ句の果ては、徴兵制と軍事教練である。幻想にすぎない「国家の共同体性」が力をもった。 天皇・皇族や鳩山一族を見れぱ、いかに支配階級が戦争で死ななかったがわかる。

 「官僚的軍事的統治機構」の担い手である役人、官僚、警察官、検察官、裁判官刑務官軍人などの生活材料は、 個人や企業からの税によってまかなわれる。しかし、いずれも労働者人民から搾取・収奪されたものが源である。 だから、彼らは本質的に資本主義社会とブルジョア国家を維持することを自身の利害として労働者階級の闘いに襲いかかる。 失業者の群れを戦争によって消耗することは支配階級にとっては一石二鳥であった。支配を転覆しようとする者はもちろん、 従わない者も大量に弾圧され、獄殺された。
 『あなたは戦争で死ねますか』 (NHK出版)という本が書店に並ぶ(二〇〇七年発行)。 だが、帝国主義ブルジョアジーは単に「戦争で死ぬ」ことを求めはしない。 「敵国の兵」であれ「テロリスト」であれ「ソマリア沖の海賊」であれ、ブルジョアどもの敵を、 自分たちが私的に所有する資本制生産様式を脅かす勢力を「殺せ」と求める。それに応じなければ監獄行きである。

 このような戦争、反革命戦争は、国連平和維持活動(PKO)への参加や対イラク戦争参加だけではない。 裁判員制度という形で「安全な社会を脅かす人間を裁け、ぶちこめ、死刑にせよ」という「現代の赤紙」による 「新兵訓練」としても始まっている。
 戦争とファシズムにむけた司法改悪は、自民党や民主党の両方が憲法改悪を推進するなかで、急ピッチで進んでいる。 その柱が徴兵制とテンノーの元首化である。

反革命戦争か蜂起−革命戦争か、ファシズムかコミューンか

 現代は、闘わなければ生きていけない時代である。いや、闘い勝利しなければ、確実に戦争とファシズムにのみこまれ動員され、 労働者人民同士が殺しあいを強いられ、生き残った支配者どもは適当に手打ちをして生き延びる時代なのである。 そのもっともわかりやすい例を、われわれは、テンノーヒロヒト(昭和テンノー)の延命に見ることができる。

 ファシズム(天皇制ファシズム)とは何か。 ボナパルティズムをマルクスが階級的に解明した方法に学び、われわれは「革命情勢にあって、ブルジョアジーは統治能力を失ったが、 プロレタリアートもいまだ革命能力・統治能力をもたず、 私有財産性の防衛・反プロレタリア革命の一点ですべての有産階級が連合する統治形態」と解き明かした。 だから、日本の戦争直後の革命期において、反革命の一点で、日米帝国主義者どもはテンノーとともに支配を維持しようと決断したのである。 テンノーは処刑されず、「戦犯」から外された。正反対に、われわれは必ずや天皇制を廃絶する。 日本帝国主義は、天皇家と天皇制を不可欠の一環として統治機構と支配階級の紐帯を作りあげているからだ。

 沖縄、朝鮮・中国・アジアなど数千万人虐殺の超本人のヒロヒトの「遺訓をひきつぐ」と言い放ったアキヒトは、その在位二十年にあたり、 一九九〇年の天皇代替わり決戦の過程で革命軍に打倒された警察官に弔意を表明した。われわれは、革命軍の闘いとともにある。 近づくテンノーXデーと代替わり攻撃では、ふたたび反天皇制の闘いが爆発するであろう。 日帝にとっての「最後の切り札」、天皇制はいまやボロボロである。正面から突破する。

 恐慌が勃発し、戦時下の革命闘争としての飛躍が求められている現情勢における革命党の戦略的任務は、 端的に言えば<反革命戦争とファシズムの危機を蜂起−内戦(革命戦争)に転化し、 コミューン・ソビエト権力を樹立せよ>という革命戦略の現実的全面的貫徹である。

 われわれは、コミューン・ソビエト権力の樹立をとおして共産主義社会の建設につき進む。 ブルジョア教育では、「ソビエト」や「コミューン」についての本当のことは教えない。 「本当のこと」というのは、抽象的な「真理」とかいう一般的なことではなく、反対に、 労働者人民の利害にとってどういう意味や意義があるのかという責味である。 ソビエトは、一九一七年に勝利したロシア革命において、コミューンは一八七二年のフランス革命において、 出現した労働者自身による統治機関である。 それはひきつづく世界革命・永続革命にむけたテコとなるべきものであった。 コミューンは、反革命どもへの追撃が不徹底だったために数ヵ月後に鎮圧させられたという。 ソビエトはスターリンのもとで決定的に変質し、ノーメンクラツーラという官僚どもの統治とその特権維持のための機構となり、 八十年もたかった。

 では、めざすべき革命的機関、運動体はどうあるべきか。

革命的労働運動に学ぶ

 「階級的党派は大衆運動のなかに内在し大衆闘争を断固として推進し大衆組織相互の結合を推進し、 それを通して大衆運動の階級化をはかるのである。 ……むしろ大衆組織を大衆組織として確立することにより、それと区別された強力な政治組織の建設が間われる。 ……党員は大衆の外にいるのではなく、 その中の断固たる部分であるということがもう一度問われてゆく」(一九七三年 反安保労働運動研究会全国センター)。 この精神は、革命的学生運動においても同じである。
 いや、学生運動の場合は、その労働者階級の立場に立った闘いへの転換が間われるがゆえに、 労研運動以上に「断固たる部分」であることが問われる。 つまり、この資本主義社会を規定する根本矛盾である賃労働と資本の矛盾においては、 資本と断固として闘うこと、資本家階級のための国家権力機構や弾圧と断固として闘うこと、 階級支配の属性である差別と断固として闘うことが問われる。 ファシストどもと断固として闘い、小ブル反革命どもである革マルや木元グループと断固として闘うことである。 現実の労働者階級の矛盾との闘いから離れ、 木元的「普遍的人間解放論」によって理論武装した木元グループを生み出した責任を有するわれわれは、 一九七三年の反帝学評からも学ばなければならない。

 「第一に、自らの社会的隷属・制約に手をかけえぬ学生運動は、観念的普通の習得、自己否定をもっての疎外された前衛主義、 宗派へとくり返し転落せざるをえないこと。第二に、自らの社会的隷属の突破ということは、 同時にどれだけ他者の運命・利害を孕んだものとして全人民的かつ本質的利害を突き出せるのかということが基軸にすえられねばならないこと」。

 「労働者階級の立場に立つ」と百回言っても労働者階級の立場になることにはならない。 「立場の転換」論は、ブルジョア社会に生活し、資本制生産様式が生み出す「商品」なしには一瞬たりとも生きていけない学生が、また、 専門知識であれ高等技術であれ、自らの労働力を「高級な商品」として売るしか生きていけない学生が、しかし、 同時に圧倒的多くの労働者人民・被差別大衆への指揮官として、職制として相対することになる学生が、 ブルジョア社会を根底から崩すプロレタリアートとともに生きかつ闘うなかでしか貫徹されない。 では、この一九七三年から経つこと三十七年、時代が変わり世代が変わり、われわれはどういう地平を獲得し、 どういう課題をつきつけられているのか。

学生をとりまく状況と教育・学園をめぐる情勢

 今年入学する学友の多くは、一九九〇年代はじめに産声をあげた。 九一年文部省(当時)は『初等教育資料』のなかで、はじめて「新しい学力観」という言葉を紹介する。 文部省官僚高岡はのたまう。「新学習指導要領に基づいた教育が展開されつつある。 新しい教育は、児童一人一人が主体的に生きる資質である、自ら進んで考え、判断し、自信をもって表現したり、 行動したりできる豊かで創造的な能力の育成を目指している。 ……日々の授業は、…これまでに経験したり、学んだりしたことなどをもとにして」と。

 『資本論』の有名な一文も紹介したい。 「一方の極に労働条件が資本として現れ、他方の極に自分の労働力のほかには売るものがないという人間が現れることだけでは、 まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるを得ないようにすることだけでも、まだ十分ではない。 資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。 …事態が普通に進行する限り、労働者は『生産の自然法則』に任されたままでよい。 すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証される永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい」。

 そもそもブルジョア教育というのは、ブルジョア社会を維持するために支配階級によって強制されるものである。 それはブルジョアのための内容であり、労働者の子弟を資本主義社会の維持のために育成するのである。 したがって、資本にとって利潤を生み出さない者は「障害者」とレッテルを貼られ、「普通教育」から排除される。 それは、資本主義社会では、教育からの排除にとどまらず、社会からの排除を意味し、仕事や恋愛関係からの排除、 生まれる前からの「殺せ」という抹殺行為として日々おこなわれている。 日本における七九年からの養護学校義務化は、「障害者」の隔離・収容を一挙に強め、 それまで「普通学級」で生活していた仲間も「学習障害」というレッテルが貼られた。

 九一年は「湾岸戦争」、対イラク−中東反革命戦争が強行された年であり、日帝は海上自衛隊掃海部隊を派遣した。 陸軍の工兵隊同様、掃海行動をおこなう海軍部隊は、先頭でもっとも敵と危険に接近する部隊でもあり、 軍事行動に命をかける鍛錬がつまれたどう猛な部隊である。 現に戦後−朝鮮反革命戦争では複数の戦死者を出しながら「国家機密」を理由に日の目を見ない年月を耐えた部隊である。 沖縄での辺野古への治安部隊・人民虐殺部隊としても掃海母艦が出撃した。そういう時代の転換点に新入生は生まれた。 「日の丸」を掲げた軍隊が広島・呉軍港を出港した。

 九九年「国旗・国歌法」が成立。 「日の丸・君が代」の強制が始まるとき、新入生は小学校中学年としてその空気を吸い、布きれに頭を下げ、 「天皇の統治が千年も万年も続きますように」と歌うのが当たり前になる。 侵略と人民虐殺のシンボルである「日の丸」と「君が代」。アキヒトは「強制するな、自らの気持ちであがめよ」と言い放った。 ここでもやはり、「自発的」であることが支配者にとっては重要なのである。 支配者に許容された「抵抗」は抵抗とは言えないし、「支配されている」と思わせない支配こそが上手な支配である(この攻撃に対して、 教育労働者の卒業・入学式を中心とした「日の丸・君が代」拒否−不起立の頑強な反撃が闘いつづけられている)。

 江崎玲於奈を座長とする「教育改革国民会議」が「最終報告」を首相小渕(当時)に出したのが九九年十二月。 「最終報告」は教育基本法改悪、奉仕活動義務化、教育自由化、大学改革を主張した。 そこでは、「エリート育成を大学で」「即戦力がほしい」というブルジョアどもの要求がそのまま通った。 資本主義の「利潤率の傾向的低下の法則」(『資本論』)が貫徹されるなか、リストラ、 労働者首切りを連発する資本は「社内教育の余裕をなくし」「産学連携でエリート養成を」というわけである。 こうして大学の民営化、独立行政法入への移行とあわせて、大学も完全に資本と国家の軍門に下り、 「利潤追求の一器官」へと露骨におとしこめられた。「産学協同路線粉砕」を掲げてきたわれわれの闘いの正当性がますます明らかになった。

 二〇〇三年対イラク−中東反革命戦争。「イラクに大量破壊兵器がある」とでっちあげて戦争は強行された。 日帝軍も参戦。イラクへの第一撃、巡航ミサイルを撃ち込んだ米帝海軍ミサイル巡洋艦「カウペンス」は横須賀基地から出撃した。 これが日米安保体制であり、その締結以来、最初は日帝足下で反乱する労働者人民への治安部隊として、つぎに朝鮮戦争、 つづいてベトナム戦争と、戦後一貫して安保は日本、朝鮮、中国、アジアの革命運動圧殺のために発動されてきた。 そもそも、沖縄−奄美への米軍軍政下へのたたき込みは、ヒロヒトの命乞いと交換条件とされ、「返還」以降いまなお、差別的状況が続いている。 敗戦直後の映画会社東宝での労働争議に対しては米軍戦車や米軍機が出動した。

 「教育課程審議会」の会長を務めた作家の三浦朱門の主張は露骨であった。 教育はエリート養成と「分をわきまえた生徒」に分けてしまうこと、つまり、 産業下士官や技術開発者や官僚や軍隊指揮官の形成と労働者や兵士の形成に二分しようとするのが、ブルジョア教育の本音なのである。 もちろん三浦自身、そしてそれに連なる御用学者は、テンノーを頂点とした支配階級ともども決して戦地には行かない。 「国民健康増進法」で体力づくりを強制され、医療費削減を担わされる。 もちろん、ブルジョアどもは十分な自前の治療費を持ち、皇族が宮内庁病院を保障されているのは象徴的である。 片や、医療保険が切れて病院に行けず、救急車に乗っても受け入れ病院はなく、たらい回しの死を迎えるのが労働者人民なのである。

 〇六年には教育基本法などが改悪。教育労働者に対する「免許更新制」などとあわせ、教育のファッショ的再編が進んだ。 九一年生まれの学友は十五歳。義務教育は終わるが、バブル経済崩壊後の長期不況と「格差社会」と言われる資本主義が必ず陥る末期において、 高校進学をあきらめざるをえない中学生が増え.る。苦労して入学しても学費不足で途中退学の危機となる。

 そして、なんとか一〇年春をむかえた。「少子化」のなか、「高校全入」が叫ばれる一方で、「高校生の学費不足」。 なんとか高校を卒業し大学に入った新入生の四年後はどうなるのか。 いや、そもそも同じ年に生まれたクラスメートは、それぞれいまどこで何をしているのだろうか。

児童・生徒をとりまく情勢と鳩山連合政府の位置

 大阪釜ヶ崎や東京日々谷の「派遣村」の状況に対して、いまや「自己責任論」を大声で言う人はいない。 資本主義社会の矛盾を「イス取りゲーム」にたとえる説明もよく聞く。 「世代間の貧困の連鎖」「格差社会」が言われる。ひどいのは「貧困の結果、社会全体の損失(コスト)が高くなる」という主張である。 日本では、「貧困ビジネス」と称して野宿労働者から金をむしりとる。 米帝では「監獄ビジネス」がまかりとおっており、日本でもすでに民営化された刑務所が存在する。

 労働者の失業率は高止まりし、収人は下がりつづけている。 「正規」労働者はどんどん減り、「非正規」、日雇い派遣といった労働形態が拡大している。
 問題は、資本主義社会において「イス」を「取らなくてはならない」労働者人民と「イス」を所有している資本家階級の非和解的な関係であり、 解決は資本家階級の打倒、その国家権力の解体以外にありえない。私有財産性を守ろうとするファシズム勢力との闘い以外にありえない。 民主党主導の連合政府は、天皇を頂点とした大政翼賛会政治の復活、 「連合」に象徴される帝国主義労働運動もふくめた反プロレタリア革命の動きを強めている。 三里塚、沖縄、国鉄、狭山などの戦後の戦闘的な闘いの地平を懐柔的に押しつぶそうとする攻撃である。

米帝足下の学生の決起

 二〇〇九年十一月、米帝足下カルフォルニア州立大学は数千人の学生で占拠された。 「大学民営化反対」「教育をマネーゲームにするな」というスローガン。 州の財政赤字がふくらみ、学費が上がり、学生はブルジョアどもの恣意的政策で学資ローン漬けとされ、一生縛られる。 この構造は、住宅ローン、サブ・プライムローンの破綻と同じである。

 さらに米帝の場合は、軍隊の志願兵制度が重なる。多くの兵士が出役後のさまざまな特典をめざして、「志願」する。 ここでは「自発的に」若者が戦場に向かうのである。 黒人やプエルトリコ出身者などの相対的な貧困層の多くが「志願」しているのをブルジョアマスコミも隠さない。 鳩山をはじめいかに現代の政治屋の出身家庭が先の戦争で生き延びてきたかを少し見れば、戦争が誰のためのものか、 「国のため」という大嘘がはっきりする。

 だとすれば、学生はどう生きるのか。この十数年の競争教育のなかで身につけてきた生きかた、価値観、人間観の延長を生きつづけ、 ふたたび学徒動員か新型兵器の開発に手を染めるのか。「人を結ぶ」ための飛行機が「空爆での無差別大量殺人」に使われるのを見過ごすのか。 敵を殺す兵士であれ、搾取される工場であれ、傷ついた労働者を手当てしてふたたび戦場や工場へ送り返すだけなのか。 それとも、たちあがる全世界の労働者人民とともに手に武器をとり、工場であれ、学園であれ、地下活動であれ、解放軍であれ、 解放のために必要な部署につき、団結の砦を築き、敵にむかって出撃するのか。

解放派の歴史と革マルの反革命性

 「労働者階級解放の事業は労働者階級自身の事業である」ことを百年ぶりに復権させた解放派は、一九八〇年を前後して、 部落差別をめぐって糾弾を受け、痛苦にもそれに居直る部分が発生した。 「労働者は差別しない、その前衛の日本共産党は差別しない」という日共の主張を想起するような部分の発生であった。 背後には、七四年六・二四の同志石井虐殺で反革命として純化した革マルとの死闘戦への忌避、本格的権力闘争への忌避があった。 国境や民族を越えて一つのプロレタリアートとして団結し、階級へと形成されていく道を拒むものであり、 解放派の歴史的地平である「階級形成論」の破壊でもあった。

 革マルは、教祖黒田寛一の根っからの反共主義、すなわち、プロレタリアートの革命運動への憎悪と蔑視をますます純化させている。 黒田の教義を理解することが「フロレタリア的人間」に自らを形成していくことした革マルは、黒田の死後、その日本主義、天皇崇拝を強め、 JR総連革マルの「浦和事件えん罪運動」とあわせて、労働者人民への敵対を深めている。 革マルによる石井同志、中原同志虐殺への報復はわれわれの党是である。

 九〇年を前後して、三里塚決戦、天皇代替わり決戦が権力のスパイ工作との激しい攻防のなか、 本格的軍事をめぐる飛躍をかちとった反動として、権力に屈服し、 狭山−部落解放運動をめぐって石川さんに対する仮釈放攻撃に屈服する部分が発生した。 彼らは「仮出獄」を拒否した石川さんを裏切った。石川さんは公然と再収監攻撃と闘っている。 その対極に、自己の小ブル体制内運動の基盤を失いたくなかった部分は、 いまや「部落解放同盟解散」「警察は家庭内暴力をふるった者を逮捕せよ」というところまで行き着いている。 天皇決戦を闘い、対革マル戦でのでっちあげ長期弾圧と闘う獄中の北條秀樹同志を切り捨てた。

 「時代の転換点」を迎え、権力は革命情勢の煮つまりと支配の危機を感じ、 ”破壊活動防止法(破防法)より小回りのきく法律で過激派を根絶する”と称して「組織犯罪処罰法」等を制定した。 わが拠点、明治大学や関西・沖縄などで部落差別主義者が差別扇動をおこない、 反共ファシスト・キリスト教原理主義者の淀橋教会韓国部が「ゴスペルソング愛好会」を隠れ蓑にして、 「学園の雰囲気を変える」と称して、鉄パイプをもって明大学生運動に襲いかかった。 同志たちは負傷しながらも断固実力で粉砕した。 が、韓国の治安機関、KCIAの後身「国家情報院」の指揮を受けながらの襲撃は、警察による援護、 すなわち襲撃された明大生と明大生協労働者への弾圧によって補完された。ここで音を上げたのが木元こと山田茂樹であった。 以来、木元グループ根絶は、その発生の根拠もふくめて学生委員会の一切の前提である。 木元グループによる五同志虐殺に報復し、ミニ・スターリニズム発生の根拠を根絶する。

 われわれは二〇〇三年、木元グループ解体・根絶戦のただなかで建党・建軍、全戦線の革命的飛躍をなしとげる決意を明らかにした。 第一に、破防法攻撃−指導的同志抹殺宣言に屈服・呼応した山田・土肥をはじめとした党・軍破壊分予、 スタ的「党軍路線」の軍の発生を許したことを痛苦にとらえ返し、軍事−非合法領域、革命軍建設の断固たる推進をもって突破する。 第二に、プロレタリア的階級性−革命性を基底的エネルギー・路線とすることの否定−「反戦・反ファッショ・反産協(反合)」の 総路線の否定に貫かれた、プロレタリア統一戦線の一翼としての学生運動(路線)からの脱落と小ブル学生運動主義への転落を許したことを 根本的に批判−突破する。

 第三に、対敵共同性、敵との闘いをとおして団結=共同性を形成・発展させ攻防関係を切りひらいていくことの解体の突破。 対敵上は、破防法攻撃への屈服、ファシストとのボス交−日韓の治安機関との取り引き、共同性=組織性としては、 ミニ・スタ的−宗教的排他的組織性−山田(・土肥)に対する屈服−従属関係を軸とした同心円的・位階制的紐帯として現れている。 これに帰結する山田指導下での学生戦線の「組織指導」における打撃主義の横行、 敵の攻撃を容認して逆に攻撃をうけた同志の責任とするという本末転倒した私的制裁的処分=排除など、 同志一人ひとりの運命にかかわることが私的専横的になされてきたこと、これを粉砕しえなかったことを厳しく総括し、 それを根本的に突破した階級的革命的組織性−団結=共同性(階級的革命的団結と闘う諸個人との、 および団結において闘う諸個人間の相互前提的相互発展的関係)を原則性の再確立とともにうち立てていく。

 第四に全体を貫いて、永続革命論を軸とした解放派の綱領・路線的地平の解体、八八年権力闘争の新段階戦取の地平からの脱落の突破。 「過渡期」論の深化を軸としたスタ批判−プロレタリア・共産主義革命をめぐる綱領的路線的深化を否定し、 民主主義的急進性の破産から権力・ファシスト・革マルへの投降−路線転換・転向にいたった。 エネルギー的思想的には小ブル的体制内思想と差別主犠への転落である。これを突破していく。
 これらの課題の整理から七年を経、その深化、正面突破が問われている。

 このように、解放派と革労協は、一つひとつ確実に、本格的権力闘争路線をプロレタリアートの利害にこだわろうと執着し、 非合法・非公然活動と組織を維持しながら、前進してきた。そしていま、新たな飛躍が間われている。 この飛躍抜きには非合法・非公然のプロレタリア・共産主義革命党−革命組織をつくることはできないし、 打倒能力と止揚能力を一つながらにわがものとし、もって「労働者階級自身の事業」の断固たる部分たりえない。 逆に、労働者人民・被蓬別大衆一人ひとりの闘いと生きざまをわがものとしていくなかで、労働者解放−全人民解放への一歩一歩が刻まれていく。

恐慌情勢下、反革命戦争とファシズムの危機を蜂起−革命戦争へ転化しよう

 マルクスが言ったように「事態が普通に進行する限り」「資本への労働者の従属に任される」。 だが、資本主義は必ず没落する。 飽くなき利潤追求が同時に賃金労働者の首を切り、利潤率は下がり、失業者が増え、労働者は「このままでは生きていけない」からである。 革命しよう。生産手段を奪取し、共産化するのである。労働者が階級として団結し、労働者の権力を職場・生産点でうち立て――名前は、 ○○工場評議会でも××地区コミューンでもよい――、全世界を獲得するのである。 資本家などまったく不要である。 生産物は資本家の利潤をふくんだ「商品」としてではなく、労働者人民が生活するに必要なものとして生産され流通される。 資本化、「商品」化した結果、労働者人民の手からますます遠ざかる土地や建物、住宅といったものをとりもどすのである。 すべての土地、財産、生産手段を全世界の全労働者人民に解放するのである。搾取と支配のために動員される官僚どもは、その特権を奪われる。 人民管理や戦争のための一切の設備や土地などは破壊される。 軍需産業に群がる資本家どもは、その生産設備への投資を回収するために、とにかく,商品」すなわち武器の消費が必要である。 帝国主義ブルジョアジーが権力を握っている限り、帝国主義戦争がなくなることはない。

 「革命しよう」などと訴えるのはおこがましい。 しかし、植民地支配を経験し、従属的経済圏を持つ日帝足下の労働者人民、とりわけ学生運動は、かつて侵賂の銃を握り、 「学徒動員」でアジア人民虐殺に手を染めたことを忘れてはならない。 「過去」の話ではなく、朝鮮人の元「慰安婦」の方が日帝とテンノーの戦争責任を問うたのは、自衛隊の海外出兵、 「湾岸戦争」出撃への危機感からであった。その血叫びにこたえなくてはならない。 帝軍の出兵を粉砕し、憲法改悪を阻止し、安保を粉砕し、日朝連動する革命へと進撃しなくてはならない。

 全国の労働現場で労働者が闘っている。 「非正規」労働者として、日雇い派遣として、不安定な生活を強いられ、怒りがたまりにたまっている。各地で争議が闘われている。 国鉄決戦は、中曽根が国鉄労働者の大量首切りをとおして戦闘的労働運動をつぶし、もって憲法改悪を強行しようとしてしかけられた。 そのなかで、反革命革マルは、資本、国鉄当局ができない役回りを担った。つまり、戦闘的労働者を襲撃した。 二百名の「自殺(=権力・資本による虐殺)者」の怒りと無念を刻み、 政府などの「金銭解決」案、不当解雇を居直った「和解」案を拒否する闘いが闘いぬかれている。
 狭山−部落解放運動は、「再収監」攻撃と正面から闘う解放戦士石川一雄さんを先頭に決戦中の決戦をむかえている。 裁判所は検察庁に隠し持つ証拠の開示を求めている。一九六三年の差別不当逮捕から四十七年、本年を絶対勝利の年としなくてはならない。

 名古屋刑務所での看守による暴行−殺入を暴露した獄中者の闘い、徳島刑務所の暴動的決起、福岡拘置所での点検拒否、シュプレヒコール決起。 大阪茨木入管収容所でのハンスト決起など、決死の闘いが権力の懐深いところで闘われている。 弾圧に対しては、完全黙秘」非転向で闘う。監獄解体、獄中者解放を闘う。

 沖縄では米軍普天間基地移設−辺野古新基地建設をめぐって果敢な闘いがくり広げられている。 米軍政下での「銃剣とブルドーザー」との闘い、沖縄刑務所での集団実力決起、コザ実力決起など脈々と闘われてきた戦闘性は、 辺野古での海自艦治安出動をひき出しての闘いへといたっている。 実力・武装の闘いこそが、敵の暴虐性をあばき、「国の共同体幻想」を粉砕し、もって闘う労働者人民側の闘う団結と武装した階級形成、 コミューン権力樹立の闘いを展望する。

 「地方参政権」をめぐり、「在日特権を許さない市民の会」などのファシスト勢力がうごめいている。 ファシストとの闘いはわれわれの望むところである。差別主義・排外主義攻撃を粉砕し、ファシストを学園・地城からたたき出す。 反共ファシスト「ゴスペル」との決着をつける。

<三里塚・組対法決戦>勝利、決戦の地=三里塚へ行こう

 <三里塚・組対法決戦>への決起を訴える。 「自らの社会的隷属・制約に手をかける」ものとして、教育・学園をめぐる闘いを大衆的に取り組み、かつ、政治闘争、 <三里塚・組対法決戦>を闘う。

 ブルジョア国家権力と明大資本は、一九九九年七月二十二日、 労働者同志をふくむ三十余名を明治大学キャンパスへの「建造物侵入」ででっちあげ弾圧した。 反革命に転じた木元グループを守るため、私有財産としての明大資本の土地への「侵襲」を「犯罪」とした。 二〇〇〇年六月二十七日には、三里塚農民を呼んだ九大での講演会の情宣に対し、労働者同志をふくむ六名を弾圧した。 木元グループの武装襲撃と権力の弾圧を理由に九大当局は講演会への会場貸し出しを取り消した。 弾圧や反革命との血を流しながらの闘いなしにわれわれの解放はありえない。 われわれは戦死、投獄をひきうけて闘う。 戦前・戦中、多くの共産主義者や戦闘的労働者は、警察や軍隊、特高警察、思想検事などによって虐殺された。 『蟹工船』の小林多喜二もその一人である。われわれは、やられたらやりかえす。弾圧−虐殺に対しては、報復する。 いや、解放のための闘いを阻む者あれば、行く手をさえぎる者あれば、一刀両断・破砕する。 だから、手にした武装力・軍事力は絶対に手放さない。戦闘を継続しながらその力と組織を維持・強化しつづける。 こうして歴史を変える。

 空港建設は、国家規模での産業合理化攻撃であり、成田治安法による団結小屋の使用禁止や撤去、農地収用攻撃は、 戦時挑発・戦時徴用の地ならしである。
 三里塚闘争は、四十五年目に突入し、いまだに国策空港の完成を阻んでいる。三里塚の農民は「土地を守る」ために闘っているのではない。 「土地を武器に」して闘っているのだ。資本家どもが土地をはじめとしたすべての生産手段を私的に所有し、 そこで労働者を働かせることで利潤を得ようとするその搾取社会、階級社会を転覆すべく闘っている。 空港「用地」内の農民は、空港会社が「一億五千万円で売って」というのを蹴った。「生きかたを決めたらカネじゃねえ」が答えであった。 「代執行で会おう」という言葉は、空港会社が機動隊という暴力集団を先頭に土地の強制収用にくることへの戦闘宣言であった。

 空港反対をはじめた世代の農民には、先の十五年戦争の経験がある。 「天皇陛下のため」「お国のため」と召集された彼らは、アジア侵略の銃を握り、シベリア抑留で九死に一生を得、 戦後のブルジョア政府の猫の目農政の半ばに、突然、ラジオニュースで「おらが畑に空港」という決定を知る。 これがブルジョア権力というものである。

 以来、三里塚芝山連合空港反対同盟は全国の労働者・学生、被差別大衆とともに、機動隊せん滅を闘い、闘う農業−有機農業を確立し、 反差別や国際連帯の闘いと結合してきた。婦入行動隊、老入行動隊、少年行動隊が組織され、かつての少年もいま反対同盟を担い、 三世、四世が現地に生きる。

 三里塚闘争の最大の地平は、武装と軍事、敵戦闘力のせん滅という日本階級闘争の壁を突破してきたことである。 一九八八年三月、革命軍が爆弾闘争にふみこんだ最初のターゲットは空港関連施設であった。 以来、九〇年のテンノーヒロヒトの葬列を中央高速道爆破戦闘で攻撃し、二〇〇八年三月一日には空港に迫撃弾が撃ちこまれた。 敵、帝国主義軍隊と互角に渡りあえる武器の使用ぬきに革命を語るのは空語である。 自衛隊内の兵士の合流、戦車や戦艦、軍用機をふくむ武器の獲得までにもその習熟は不可欠である。

破防法攻撃-組対法攻撃を粉砕しよう

 解放派とプロレタリア統一戦線は、労働者階級自身の革命性にこだわり、本格的権力闘争の道を歩み、非公然・非合法の運動と組織を建設し、 「獄中を戦場に」を合い言葉に闘ってきた。 わが革命的学生戦線の先達、北條秀輝同志は、 せん滅された革マル二名の「殺入罪」でっちあげ指名手配に対する十六年の地下活動と十六年の獄中闘争勝利のうえに、 最先端の闘いを担っている。明大学生会中執委員長は八年にわたる指名手配攻撃を粉砕した。

 これらの闘いに象徴される路線と闘い、団結と組織を、国家権力は何がなんでも破壊しようと必死である。 〇八年三・一戦闘から二ヵ月、権力は「革労協福岡県委員会が障害者への介護手当を詐取している」と でっちあげて左翼への初の組対法弾圧をかけた。弾圧に対して、労働者・学生・「障害者」は、その初公判で法廷を実力闘争の場へ変えた。 部落差別糾弾、「病者」差別糾弾の声が裁判長にたたきつけられ、逆に裁判長の「退廷」は粉砕された。 迫撃弾にこめられた労働者解放、全人民解放、三里塚闘争勝利の戦意と、 職場・学園・地域・「寄せ場」などを貫いて広範で大衆的な闘いとなっていることへの恐怖が、権力をさらなる弾圧へと追いやった。 逮捕・取り調べに当たった公安警察官は「木元グループや教会のやる炊き出しはいいが、 おまえらの炊き出しは戦士をつくるからだめだ」と敗北感を表白。 福岡・築港日雇労働者組合の仲間は、まさに、ブルジョア秩序をうちやぶる闘いと団結を築きあげ、三里塚現地常駐をやりぬいている。 反対に、木元グループは、 三里塚反対同盟を襲撃し、権力からごほうびに「NHK出演」をもらって喜々としている。われわれは、権力にしっぽを振らない。 実力・武装の闘いで労働者人民に訴える。

 裁判員制度が始まるこの時期のこの実力闘争は最高裁判所長官竹崎の肝を冷やした。裁判長は更迭され、翌〇九年二・一七弾圧が発動された。 傍聴団に対して裁判所がバリケードを築き、抗議した人々を「威力業務妨害」「不退去」にでっちあげた。 さらに、左翼への初の本格的「公判前整理手続」を強行している。 公開での裁判が始まる前に密室で「被告人」も抜きに審理内容を決めてしまおろというのだ。 こんなものを認めると、公開裁判では一切の新たな証拠調べはできず、 「前手続」で権力の前に無防備にさらされた「弁護側証拠」はすべてつぶされるのみならず、 「無罪立証」をすればするほど自身や人民側の情報を権力に売ることになるのである。

 被告」たちは「前手続」を拒否し、弁護人は辞任せざるをえず、逮捕一年が経つも裁判は始まらず、 拘禁だけが外部交通も一切ないなかで長期化しているのである。 われわれはこの攻撃を許さない。 接見禁止、獄中テロ、「強制給食」という拷問、長期の「懲罰」、 機関紙等への墨塗りなどなどあらゆる攻撃が獄中同志への獄殺攻撃として集中している。同志にかけられた攻撃には必ず報復する。

 獄中の同志たちは、看守の暴行で気を失いつつ「命を失っても敗北ではない」と決意を伝えている。 進学を選べば今年の新入生と同じように大学キャンパスで出会ったであろう獄中の同志は、 「三里塚に赤旗が翻っていると元気です」と全国全人民を鼓舞している。

 ぜひ、三里塚現地に行こう。そこで機動隊の暴力を、三権一体の国家権力の暴虐性を見て取ろう。 学校では絶対に教えない三里塚の農民、全国から結集する労働者・学生・被差別大衆の闘いと団結に、自らの生を切り結ぼう。 五・一三組対法裁判や二・十七組対法裁判傍聴弾圧−「前手続」攻防に参加しよう。

 帝国主義を打倒しようとする学友、警察・機動隊をせん滅しようとする学友、労働者人民とともに生きようと望む学友、 安保を粉砕し帝国主義軍隊を解体しようとする学友、差別主義・排外主義と闘う学友、天皇制を廃絶しようという学友、 教育改悪に怒れる学友、ファシストと闘う学友、すべての闘う学友は、解放派に結集しよう。ともにプロレタリア解放の戦士として決起しょう。


【 誤字脱字は転載の責任 】 (ページトップへ)





Copyright(C)ポリシー少数派. All Rights Reserved.