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万国の労働者団結せよ!
発行者 現代社

東京都杉並区下高井戸1-34-9

革命的労働者協会
(社会党・社青同 解放派)

【解放 957-959号 (2010/5/15-6/15) 《論文》 】【 以下、無断転載・無断作成 】


光州蜂起30ヶ年によせて
プロレタリア国際主義の旗高く学び、ひきつぐ闘いを


井上 紫陽華



 本年は、あの光州蜂起から三十ヵ年をむかえる。 同時に、日帝による「韓国併合」百ヵ年弾劾の年でもあり、朝鮮階級闘争、とりわけ南朝鮮階級闘争は日増しに煮つまっている。 二〇一〇年の今日、これまでの「〇ヵ年」と決定的に違うのは、○八年のリーマンショック以降の恐慌突入情勢であるということである。 つまり、一九七四−七五年を画期とした資本主義経済の収縮過程、不況の長期化という事態のなか、戦後第二の革命期へむかう情勢において、 いよいよそれが恐慌という事態にいたったということである。 あれやこれやの主観的観念的思惑ではなく、 歴史的世界的存在としてのプロレタリアートによる現実の革命が爆発する時代にいたったということなのである。 だからこそ、帝国主義ブルジョアジーは、自らの支配の危機を強烈かつ敏感に感じ、 反革命戦争とファシズムへの突撃をしゃにむに進めているのである。

 七四−七五年の転換期が、 ベトナム革命勝利という第二次世界大戦以前からの長期の反帝闘争の偉大な勝利の時期と重なっているのは偶然ではない。 むしろ、帝国主義資本による直接の搾取・収奪のくびきからベトナム・ラオス・カンボジアなどの労働者人民が解き放たれ、 帝国主義資本の搾取・収奪源が断たれて帝国主義ブルジョアどもの力が大きくそぎ落とされた時期になったからである。 また、米帝足下階級闘争も、ベトナム労働者人民の闘いにつき動かされながら、反戦・反帝決起を強めていったのである。 米帝足下の労働者人民が、ダブルワークを余儀なくされていくのもこのころからである。 つまり、米帝は内外の労働者人民の闘いによって、ベトナム反革命戦争に敗北したのだ。

 それから五年後、光州蜂起は闘いとられた。われわれが注目し学ばなくてはならないのは、 そこにいたる労働者人民の闘いであり、それをひきつぐ今日の闘いである。 二千名とも言われる労働者人民の虐殺を許した日帝足下のわれわれの痛恨の総括を深めなくてはならない。 日米安保体制のもと、在日米軍基地からの米帝軍の出撃を許したことを忘れてはならない。 日帝は「在留邦人の安全」「日本企業の防衛」を叫んだ。 日韓定期閣僚会議、 首相(当時)大平葬儀での弔問外交などを通じての一連の反革命援助の貫徹と全斗煥(チョンドファン)政権の支持をおこなった日帝足下の闘いが問われた。

 国際情勢は、当時七九年のイラン革命、八〇年のニカラグア革命に象徴されるように、 これまで米帝の軍事的経済的てこ入れによって維持されてきた反共反革命的な政権が労働者人民の闘いによって打倒される時代であった。 七四−七五年の画期を経て、従属的経済圏諸国の「弱い環」において労働者人民の死力決起が勝利をかちとったのだ。

 光州蜂起にいたる過程では、在日朝鮮人「政治犯」への獄中弾圧が強化されたり、 南朝鮮政治犯への死刑執行(「鬱陵島事件」−七七年十二月執行)が秘密裏におこなわれるなどの攻撃が強行されている。 当時日帝は法務省入管局の坂中英徳が「敵性外国人を管理せよ」と差別虐殺を公式論文でがなりたてた。

 南朝鮮の労働者人民は、光州蜂起を経て、今日「労働者階級の解放は労働者階級自らの力によってのみ戦取する。 ブルジョア国家体制を廃絶する下からの労働者直接権力(ソビエト、コミューン、レーテなど)」 「労働者国際主義、世界革命路線の守護」「社会主義革命運動の観点における女性、環境、 少数者問題の包括」などを公然とかかげて闘う勢力がいる。自らを「スターリン主義にとらわれた社会主義政党のように、 『無誤謬の神話』を誇るものではない。 代わりにわれわれは社会主義者たちの間での真摯な討論と実践経験の蓄積、労働者民衆の知恵を集め、絶えず誤謬を克服しながら、 より完成された労働者階級の党をめざして前進するものである」として、進むべき方向を示している。

 一九八〇年の光州蜂起の直前には、舎北炭坑、東国製鋼、仁川製鉄などでの労働争議が闘われた。 光州蜂起以降は、非合法の闘いをふくめた必死の闘いが展開され、ついに八七年「六月抗争」のなか軍部ファシズムは打倒された。 それを総括して「数多くの烈士たちの死を突き破ってそそり立った『軍部独裁打倒』のスローガンは、 大統領直選制をめぐる直接選挙を通した政治民主化を意味したものではなかった。 むしろ軍部ファシズムが基盤としている国家独占資本主義体制の転覆の可能性を内包したものだった」と述べる部分がいる。

 いままさに、南朝鮮階級闘争は、これまでにない高揚をむかえている。 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は、金正日(キンジョンイル)が「健康問題」と「デノミ政策の失敗」が言われるなか、中国訪問をおこなった。

 そんななか、韓国支配階級は、マスコミの総力をあげて、 本年三月に起きた哨戒艦沈没事故を「北朝鮮による魚雷攻撃」というキャンペーンにはいっている。 朝鮮反革命戦争の危機がいっきょに煮つまっている。光州蜂起のときも、「首謀者」として金大中(キムデジュン)をでっちあげ、 彼が.反共主義者であることを百も承知のうえで、「北朝鮮のスパイ」とキャンペーンした。まさに、連帯と自国帝国主義打倒の闘いが問われる。

朴正熙維新体制をおいつめた闘い−釜馬抗争と朴正熙暗殺

 一九七九年十月二十六日、南朝鮮の階級闘争が熱く燃え広がるなか、十九年におよんだ朴正熙(パクチョンヒ)独裁体制が崩壊した。 朴正熙は側近の一人である中央情報部長金載圭(キムジェギュ)によって暗殺されたのである。  

 朴正熙は六一年李承晩(イスンマン)独裁政権を打倒した「四月革命」をふみにじり、五・一六クーデターによって権力を握った。 反共法制定と中央情報部の確立による大弾圧を手始めに軍事独裁体制をしき、六三年大統領に就く。 七二年十月には非常戒厳令を宣布、ふきあがる闘いをおさえつけ独裁を強化するための維新クーデターを強行する。 南朝鮮における「維新撤廃」の闘いは学生運動をはじめとしてすさまじい弾圧と対決しながら七○年代いっぱい闘われてきた。  

 七九年十月、韓国経済が深刻な危機に見まわれ、失業とインフレが労働者人民の生活を直撃するなかで釜山・馬山民衆抗争が爆発した。 釜山大学でのデモを皮切りに、十月十六日から二十日にかけ「独裁打倒」「維新撤廃」を叫ぶデモが数万人にふくれあがり、 警察署、慶尚南道庁、税務署、放送局、新聞社など数十ヵ所を攻撃、破壊・炎上させたのだ。 これに対し朴正熙は空挺部隊二個旅団を投入して鎮圧する。しかしこの闘いこそが朴正熙体制に激震をもたらしたのであった。 そして「十・二六事態」が起き、朴正熙独裁体制は倒れたのである。  

 「民主化と統一」を求める気運は一気に高まった。軍事独裁の時代は終わるかと思われた。 朴正煕が「反維新的活動」とその報道を一切禁じた弾圧法令である「緊急措置九号」が解除され、 除籍学生の復学が認められるなどの措置がとられた(「ソウルの春」といわれる)。 その一方で国軍保安司令官全斗煥は十二月十二日、維新体制を維持しようとする勢力による粛軍クーデターで軍部門の実権を握り、 四月には超法規的に中央情報部を支配下におき実態的な権力掌握にはいっていった。  

 こうしたなかで労働者人民は攻勢に出たのである。  
 実力争議が各地で闘われ、賃上げ・時短などの勝利がかちとられていった。 四月二十一日から二十四日にかけて爆発した「舎北抗争」は光州民衆抗争への序曲ともいうべき闘いであった。 江原道舎北の東原炭坑において御用労組との闘いを火花に、労働者とその家族数千人余が警察と衝突し、 舎北支署と舎北駅を占拠、武器庫をも押さえ、 「殺人警察出ていけ」「戒厳解除」など政治闘争に発展する闘いとしてかちとられた(死傷者百名以上、速捕者百名以上を出した)。  

 そして五月、首都ソウルをはじめ各地の大学で「戒厳撤廃」「維新残党退陣」をかかげたデモや籠城闘争、投石戦が開始されていった。 五・一四全土六万人決起−ソウル三万人、五・一五全土十万人決起−ソウル六万人という数字は、単に学生決起ということを超えて、 労働者の決起への合流がかちとられつつあったことを示している。

空挺部隊による光州人民虐殺

全斗煥による五・一七クーデター

 五月十五日には全国六十余の大学から十万人が街頭へくりだし、機動隊と衝突、投石戦が闘われた。 光州でも、大学の正門前に張られた機動隊の阻止線を突岐し、全羅南道庁前噴水台を中心に全羅大、朝鮮大、 光州教育大の学生たち一万六千人が結集し「非常戒厳即時解除」などの要求をかかげた。  

 五月十六日、総理申鉉q(シンヒョナク)の「国民の要望に答える」などの「特別談話」をうけ、 全国各大学でデモを一時中断し政局を見守る方針がとられるなか、全羅地域ではたいまつデモを決行。 沿道を堀めた多くの人々の共感をよびおこしながら、火刑式など戦闘的に闘われた。  政府は全国的な闘いの高揚におされ、「五月二十日に臨時国会を召集し、『戒厳令解除』を含めた時局問題を取り上げる」ことを発表。 しかし他方では、大弾圧が準備されていたのである。  

 五月十七日、全国で「民主化運動」を推進してきた中心的な人々の一斉逮捕が強行された。 全斗煥は、朴正熙暗殺直後からの非常戒厳令(済州島を除く全土)を高揚した闘いを鎮圧するものとして全国に拡大し、 あらためて全国非常戒厳令を宣言した。国会解散、非常機構設置なども決定された。全斗煥が全実権を掌握するクーデターであった。 学生運動や労働組合の活動家、宗教者、金大中ら在野政治家などがつぎつぎと逮捕されていった。 また金鍾泌(キムジョンピル)など右翼政治家も権力型不正蓄財者として逮捕された。

人民虐殺のために放たれた第七空挺団

 歴史に刻まれる偉大な民衆抗争は全南大学から始まった。五月十八日、「休校令」により大学を封鎖する空挺部隊に対し、 集まってきた学生二〜三百人が「戒厳解休」 「全斗煥退陣せよ」を叫び対峙した。 これに対し空挺部隊はメガホンで「解散せよ」と警告をくり返していたが、学生達が従わないと見るや突如棍棒で襲いかかったのだ。 学生達は投石を始め抵抗しようとしたが、 訓練された空挺部隊は石を避けずに襲いかかり狙いをつけた者を鉄の芯が入った殺傷用の特殊棍棒で血まみれにし失神するまで殴り倒しては連行した。 学生達はこの事態を知らせるべくかけ回り、ただちに街頭デモを開始した。 街の中心にある道庁前噴水台と、そこから光州駅方向へのびるメインストリートの錦南路(クンナムノ)が光州の歴史的主戦線であった。  

 五百人余の学生が戦闘警察による催涙弾や棍棒での攻撃さらにはヘリコプターからの銃撃さえ受けながら、 バラバラに散ってはまた集まってデモを敢行し、機動性に富んだデモのやり方を獲得していった。 デモ隊の果敢な反撃によって派出所が破壊され、警察のガス車が炎上した。 デモ隊は千人、二千人と増えていき御用機関である道教育委員会に投石し、派出所を次々に叩き壊した。 一時はバスで動員されてきた警察部隊をとり囲み捕虜として確保できる程であった。  

 夕方になり空挺部隊が投入されたときに大虐殺が開始された。  
 殺気が渦巻いていた。空挺部隊は手当たり次第、棍棒でまず頭を殴り倒れると三、四人でとびかかり軍靴で蹴り棍棒で殴り顔面を踏みにじった。 少しでも反抗を示せば銃剣で腹をえぐった。後ろ手に縛られトラックに放り込まれた学生を車上でまる裸にしさらに乱打した。 女子学生でも路上で裸にして乱打した。止めに入ったり、学生をかばったりした老人達にも同じようにテロをふるい虐殺した。  

 空挺特戦団はゲリラ戦等非正規戦の特殊訓練を受けた陸軍の特攻部隊であり、特に第七空挺団は全斗煥の私兵のように育成され、 釜山・馬山抗争の鎮圧にも投入された部隊であった。 全斗煥はこの部隊に二日間食事をさせず幻覚剤入りの酒を飲ませて、人民を虐殺させるために放ったのである。  

 おびただしい死傷者を出しながら、学生・青年達は立ち向かった。 数時間後には角材・パイプ・包丁などを握りしめ道路を鮮血で染めながら、押しつ押されつの攻防まで押し返したのだ。

大殺りく作戦「華麗な休暇」

 翌十九日午前、錦南路を埋めた群衆は三千〜四千入に達した。 前夜は一晩中捜索−連行が続けられ、集まった人々に学生の姿は少なく、かわって様々な生業で生きぬいている労働者・人民の姿があった。 警察の催涙弾攻撃に対し、バリケードを築いて投石戦が開始され、激しい応酬になると、再び空挺部隊がトラック三十台に分乗して登場した。 棍棒で殴られた人々が血を吹き出して倒れていく。 空挺部隊は棍棒、銃の台尻で殴り、銃剣、帯剣で刺した。 逃げるデモ隊を追い、店でも民家でも乱入し若い人がいればデモの参加いかんにかかわらず乱打し連行した。逃げるデモ隊を追い、 店でも民家でも乱入し若い人がいればデモの参加いかんにかかわらず乱打し連行した。捕まえた者を裸にし「気合」 (日帝植民地時代の日帝軍用語。残虐・過酷かつ侮辱的な仕打ちを受けさせる)をかけた。 「女子学生の乳房をえぐりとって殺した」「妊婦の腹を切り裂き胎児を引っぱり出して投げつけた」 「トラックの後ろにつるし引きずり回して殺した」 「木に逆さ吊りにして、剣で刺し銃で撃った」など数々のすさまじい残虐行為の証言が残されている。  
 この虐殺に投入された部隊は約一万三千。ファシストどもはこの作戦を「華麗な休暇」と名付け「まるで狩りでも楽しむように」暴れ回った。  休業状態の街は昼には静まりかえり、軍と外国人マスコミ意外誰もいなくなった。完全に壊滅させられたかのようであった。

反撃に燃えあがる光州

怒りの爆発

 しかし、人民の怒りはまさに活火山のように爆発した。午後にはさらにはるかに多数の人々が街頭へうって出た。 四十代以上の中年層や女性も加わった。催涙弾と棍棒、帯剣での攻撃に対して、バリケードを築いて石・火炎瓶を投げた。 炎上させた車両や石油入りのドラム缶を敵陣につっこませ、爆発すると歓呼の声があがった。 女性がブロックを砕き、青年が投げるなど役割分担がなされ、工事現場で働いていた労働者は武器になりそうなものを運びこんだ。 逃げるデモ隊を追いまわしてテロをふるう空挺部隊に対して、深追いし孤立すればとり囲んで逆襲しせん滅した。 授業を拒否し決起した高校生の闘いはもっとも多くの死傷者を出しながら凄絶に闘いぬかれ人々を奮いたたせた。 血みどろの攻防が広域に拡大し、市内の病院は老入から小学生まで重傷者であふれ、そこでも多くの入々が死んでいった。  
 これほどの大殺りく作戦をやりながら、戒厳司令部はこの日、民間人死傷者一名、戒厳軍死亡者四名と発表したのである。

労働者の決起−新駅戦闘の勝利

 翌二十日、戒厳軍は残虐の限りをつくした第七空挺団を他の部隊に交代させ兵力を増強した。 この部隊は一見口のききかたも丁寧で酔っている者もいなかったが、今度は火炎放射器で武装していた。 集まってきたデモ隊と一触即発の対峙が続いたのち、ついに衝突がおこると空挺部隊は二十メートル先まで火炎を吹きつけ、 先頭にいた人々を一瞬で火だるまにし、その死体を運び去った。  

 数万人の老若男女が錦南路一帯を埋めつくし、座りこんだ。集会をおこない、「われらの願い」「正義の歌」などを声を合わせて歌った。 空挺部隊が棍棒をふりまわして襲いかかってき、その場がいっぺんに血まみれになると、人々は路地や建物に散ったが、ふたたび集まった。 カンパが集められスピーカーが登場する。 「われわれ全員、この場所で先に倒れた人達とともに死にましょう」というよびかけにデモ隊の士気は高揚した。 軍・警察は全南道庁と道庁前噴水台を中心に戦車をはじめとする兵力を布陣して道庁へ向かう六つの道路に何重もの阻止線を張っていた。 数万のデモ隊がここに押し寄せ果敢な投石戦を闘いぬき、激しい催涙ガスに苦しみながらも一歩もひかず攻防を続けたのである。  

 その夜、新たな感動をよぶ闘いが起こった。大型トラック・バス十数台、そして二百台余のタクシーのデモが対峙現場に押し寄せたのである。 タクシー労働者は市内各地で空挺部隊の蛮行を目撃しているうえ、病院へ向かう重傷者を乗せているというだけで何人も虐殺されていた。 労働者達は集まって「阻止線突破の先頭の元頭にたつ」ことを決議し、手拭いのはち巻きを締め、突撃した。対峙していた人々も石、 火炎瓶、鉄パイプなどを手にこれと一体となって突撃した。 戒厳軍は全員を窒息死させるようなすさまじいガス弾攻撃で応酬、ヘッドライトを叩き壊し窓ガラスを叩き割り運転手を引きずり出して、 気絶させてもさらに暴行を加える殺人テロのすえ連行した。決戦的な闘いであった。 死傷者は増える一方だったが、その後も数波にわたりバスや消防車を先頭にたてて突撃、四人の警官がひかれて死んだ。 ガス弾と石が無数に飛びかった。 結集した二十万人ものデモ隊は派出所を破壊、焼き払い、真実を報道しないMBC・KBS各放送局を占拠し、 また軍・警察の警備を粉砕して市役所を占拠した。深夜、税務署が炎トし、労働庁も炎上した。  

 明け方四時に勝利をもぎとった新駅戦闘もまた多数の死傷者を出した激戦であった。 光州駅は交通・運輸の要という戦略的位置もあって敵も必死であり、ついにはM16自動小銃の連発射撃が開始された。 しかしそれにもかかわらずデモ隊はさらに援軍を呼び寄せ、屍を乗り越え、決死の攻勢をかけてついに戒厳軍を撤退させたのだ。  

 この日、二十日午後申鉉q(シンヒョナク)内閣は総辞職。 しかし光州の状況について公式報道は何もなされないままであった。

デモ隊への一斉射撃

 翌二十一日、戒厳軍が掌握しているのは道庁と噴水台、全南大、朝鮮大、光州刑務所だけであった。 街は、それまでそこらじゅうで検問をしていた戒厳軍の統制下から脱し、解放感につつまれていた。 市場で働く女性たちはのり巻、握り飯、卵、キムチ、水など少量を持ち寄り集まってきた人々にふるまった。 血を流して闘う人々の熱い連帯と交流があった。  

 「道庁へ!」全人民の決起をよびかけるビラがいたるところでまかれていた。 三十万人もの人々が道庁を取り囲み果敢に衝突をくり返して戒厳軍の阻止線を脅かしていた。 道知事に「流血事態に対する公開謝罪」などの要求をつきつけた交渉が決裂する一方、戒厳軍は撤収準備にはいる動きを見せていた。  
 ところが、この人民の大包囲の中で戒厳軍は突如、一斉射撃を開始したのである。先頭にいた人がバタバタと倒れた。 なおも投石し突撃した高校生部隊に銃弾があびせられ、救助に飛ひ出した人々も撃たれた。 あっというまに数十人が射殺され、死体が戒厳軍にひきずられていった。まだ勝利を謳歌できるときではなかったのだ。  

 闘って死ぬのだ−−憤怒が人々をつき動かした。 道庁屋上からM60機関銃が火を噴く中を何人もの人が命とひきかえに非武装のままトラックでつっこんでいった。 戒厳軍はヘリコプターから機銃掃射を始め、さらに多くの人々が倒れた。

武装−銃撃戦を闘いぬく

 武器を獲得しなければならない。  
 予備軍武器庫から予難廟からカービン小銃三十丁余が調達され実弾とともに分配されると、各自建物にはいり、 窓をやぶって道庁にむけて銃撃を開始した。デモ隊は周辺地域(和順・羅州など)に出向き、 光州への動員でカラになっている警察署・派出所を襲い、カービン小銃など千丁近くを奪取してきた。 車両はアジア自動車工場から調達された(全期間で三百六十台を残らず使用)。 そしてこの過程で企羅南道一帯に事態が知らされ闘いが波及し、数万人のデモ・決起大会、警察襲撃などが爆発した木浦をはじめ、 各地で光州に呼応したデモが闘いぬかれた。  

 また周辺地域からも労働者・青年が光州へ合流し、 あるいは合流しようとしてこれを阻止するために配置された戒厳軍との銃撃戦も各地で闘われた。  

 光州市街地では銃武装した数百人の青年たちが熾烈な銃撃戦を開始していた。武装デモ隊は「市民軍」と呼ばれるようになった。 市民軍は「友軍」、戒厳軍は「敵軍」と呼ばれた。敵は正規軍の精鋭部隊であり、銃の性能もまったく違う。 死傷者は市民軍のほうがはるかに多かったが、倒されればまだ武器を持っていない人がただちにその銃をとって闘った。 軍事知識に精通した予備軍の人が軸になり自発的に戦闘組織が形成されていった。部隊を編成し、銃の操作を教わり、部隊配置されていく。  

 市民軍は四方から道庁を包囲し攻撃を続けた。激しく銃弾がとびかい、死傷者は道路に倒れたままにされねばならなかった。 午後から始まった銃撃戦は夕方まで続いた。そして夕方五時ころの猛攻撃、 とりわけ道庁から三百メートルほどの位置にある全南大学病院の十二階屋上にLMG機関銃二丁を設置するという市民軍の作戦が大きな決め手となった。 四階までしかない道庁に機関銃弾が激しく降りそそいだ。  

 ついに、道庁の戒厳軍本部は陥落した。 戒厳軍は逃走路を確保するために、まず装甲車一台が道路の両側を機関銃で掃射しながら猛スピードで二往復すると、 その後軍用トラック十台がやはり道路の両側に向けて乱射しながら猛スピードで走り去っていった。 市民軍から猛攻撃がかけられた。朝鮮大・全南大の部隊もすべて退却。市民軍は暗くなってからも逃走する戒厳軍を追撃・せん滅した。 ついに勝利したのである。

武器をさし出すべきか

解放都市・光州

 この夜から戒厳軍は光州市の周囲七地点を封鎖し、ほかの地域と分断する作戦をとった。 あるところでは新たな作戦に投入された部隊と退却する部隊の間で相互の確認ができず銃撃戦になるという混乱ぶりであった。  

 市民軍は周辺地域の予備軍武器庫や警察署などから五千丁以上の銃器や手榴弾などを獲得していた。 市民軍は封鎖された地点でバリケードを築き戒厳軍と対峙した。また遊撃的な防衛部隊が編成され戒厳軍の進入を防ぐ活動を最後まで続けた。  

 一夜明けた二十二日、光州は解放区であった。 人々は道庁・錦南路へおし寄せ、この数日間のこと、これからのことを互いに語りあった。 市民軍の車両が「戒厳撤廃」「全斗煥処断」などのスローガンを掲げて走り回っていた。 女性たちは誰彼なくのり巻きや握り飯を与え、市民軍の誇らしげな武勇談がそこかしこで語られた。  

 二十一日から二十七日までの解放された光州は「真の平和と暴力からの解放感に、全市が生命力にあふれ、 人間同士の不信の時代が過ぎさり、弱い者と病む者、貧しい者と苦しむ者がともに生き、 ともに助け合っていくということがどういうことなのかを満喫した秩序正しい民主共同体、のり巻き共同体(食を分かつ共同体の意)、 医療共同体であった」 (一九八五年全南社会運動協議会「全斗煥政権と米行政府および尹誠敏国防長官に問う」)。

 全南地域は朴政権の「地域偏向開発政策」をはじめさまざまに矛盾を強いられてきた地であり、労働者は全国平均賃金の半分以下、 女性労働者はさらにその六割というすさまじい飢餓賃金を強いられていた。決起大会では「労働三権を保障せよ」「御用労組は出ていけ」というスローガンがつねにかかげられていた。 失業・野宿労働者や手工業的零細中小企業を生業とする人々、また「歓楽街」で働くことを余犠なくされている女性たちが闘いの先頭にたっていた。 労働者の階級的な怒りと抑圧・差別への深い怒りが、この輝かしく誇り高い「共同体」を生み出したのだ。  

 道庁を接収した市民軍は、一階の庶務課を作戦状況室とし、電話で全国に状況を伝えたり、 戒厳軍が置いていった無線機で敵の動向を掌握したり、死亡者の情報を集約して屋外放送で広場に集まっている人々に発表したり、 決起大会の準備をしたり、戒厳軍の潜入を摘発して調査したりといったことを分担して進めた。 外では噴水台を中心に集まった人々が自発的に決起大会をおこなっていた。 老若男女諸階層の人々がつぎつぎに噴水台にあがって発言し、空挺部隊の蛮行を弾劾し、怒りを叫び、涙を流し、 熱い共感で結びつき状況を正確に把握していった。

「武器返納」を主張する人

 一方、牧師・弁護士・官僚・企業主らを中心に十五人で構成される「五・一八収拾対策委員会」が結成された。 彼らは@事態収拾前に軍を投入するなA連行者全員を釈放せよB軍の過剰鎮圧を認めよC事後の報復禁止D責任免除E死亡者への補償 F以上の要求が貫徹されれば武装解除を行う−という七項目の要求事項を決定し戒厳分所へ交渉に出向いた。  

 しかし敵の責任を追及するのでなく「責任免除」なる要求を出しているように、 そもそも闘いに参加してもおらず労働者人民の代表たりえない人々であった。 収拾委員会は「交渉報告大会」において、「戒厳分所長が過剰鎮圧条項を個人的には認めた」などの報告をする一方「武器返納」 「治安秩序維持権を戒厳司令部に引き渡すこと」と主張して人々の怒りをかい、 「屈辱的な交渉反対」の叫びにその場から逃げ出さなければならなかった。それにもかかわらず、 一方的に武器の回収を決定し実際に回収してまわりだした。 おりしも新任の国務総理代行の朴忠勲(パクチュンフン)が光州を訪問するといいながら実態を何ひとつ見にこず、 戒厳分所長の報告のみをうけ、全国放送で「一部の不純分子が…武器を奪い取って軍人に発砲したにもかかわらず、 軍は政府の命令に従って市民に発砲せず、積もりつもった怒りが爆発寸前」などと言い放っていた。 道庁には顔も見分けられないほどの惨殺死体が四百七十五体もそのままにされているのに、である。 人々は怒りに震えていた。  

 一般収捨委員会とは別に学生収拾委員会が組織されたが、 その多くもこれ以上の流血を避けるためには銃器を無条件返納するほかないと考えていた。 これらの人々は翌二十三日には銃器二百丁を戒厳司令部に返納して連行されていた三十四人を引き取ってき、 「武器を返納すれば要求が受け入れられるだろう」として、いっそう口をそろえて「武器返納」を主張した。 学生収拾委の一部の学生がこれに反対した。 また学生運動・民主化運動を推進してきた学生・青年らも、この攻防に注目しつつ、武器・車両・燃料・食材などを持続させるべく整備し、 防衛態勢強化のために奔走し、 「屈辱的交渉反対」を叫んだ人民の意思を結集することで武器返納をやめさせるべく決起大会の準備や広報宜伝活動に尽力していた。 彼らこそが命がけで敵に対峙する労働者人民とともに闘い、実際に最後まで闘いぬいた人々であった。  

 決起大会では、発言に立った人々はみな「最後まで闘い、戦取した解放を守りぬく」という決意を明らかにした。 一般収拾委は、夜は戒厳軍の奇襲を恐れて道庁にいられず家に帰っていた。  

 戒厳軍の攻撃はずっと継続していた。全斗煥は戒厳軍を撤収させた翌二十二日に「軍は市街戦を覚悟した一大作戦を準備中」と明言していた。 戒厳軍は市民軍の防衛陣地に奇襲をかけ、また献血をよびかける医療班の車両を銃撃し二十数名を虐殺した。 周辺地城で起きた戦闘は、一人も生存者がいなければ、その事実すら闇に葬られた。 二千六百名の一般囚と百七十名の政治囚を収容する光州刑務所では、戒厳軍は何重にも囲んだ厳重な警備態勢を敷き、 付近の高速道路を通過するだけでも機関銃で銃撃し、数波の交戦で多くの死傷者を出した。  

 また道庁の内部に人民を装って潜入し、道庁での諸任務に決起してきた人々に不安・不信をあおり分断し内側から崩壊させようとした。 こうした攻撃との対決は危険で困難であった。とりわけ炭鉱労働者の協力で入手した多量のダイナマイトが、 投降派指導部の手引きによる戒厳軍の工作ですべて雷管を取り除かれ、使用できなくされたことは打撃であった。

民主闘争委員会の誕生

 二十四日、午後からの決起大会では、収拾委の投降的態度に対する非難が噴出した。 収拾委の交渉報告は「戒厳軍は過剰鎮圧を認めて連行者九百二十七人のうち七十九人をのぞくすべての人を釈放した」とか「事実報道に努力」とか、 戒厳軍の誰も信じないだまし文句を代弁するものでしかなかった。 決起大会は十万人が結集し、全斗煥のワラ人形の火刑式をおこなうなど断固として闘う決意を示していた。 人々は口々に責任者の処罰と血の補償を叫んだ。  

 学生収拾委は「無条件武器返納」を主張する「投降派」と「被害補償・政府の謝罪など要求貫徹が先」と主張する「闘争派」にわかれ、 深夜まで論争がつづいた。 投稿派はそれまでも決起大会に非協力であり妨害さえしたが、自分たちの戒厳軍との交渉が猛烈に非難されるや「戒厳司令部との武器回収・自主収拾の事前的束」を限拠に「市民を興奮させる決起人会の取りやめ」を要求した。 そしてその翌日も執ように武器回収にまわったが各地で言い争いになり撃退された。

 市民軍は長期化のなかで防衛地域から離脱する人もいたが、地域の予備軍は自主的に部隊編成し武器をひき取って進んで武装していった。  

 闘争派は投降派の敵対を粉砕して闘いぬくべく、大学生や民主人士によびかけ組織した。これによって一般収拾委は一部再編された。 そして多くの学生は闘争派の学生と行動をともにした。  

 二十五日夜、投降派を代表する学生収拾委の委員長が辞任(その二時間前にはテレビで闘争派が主導権を握ったと報道されていた)、闘争派の学生と青年労働者たちによってついに光州民衆指導部が生み出された。 「学生収拾委員会」は「民主闘争委員会」へと改編された。  

 課題は山積していた。何よりも防衛態勢を強化し、 戒厳軍の封鎖で食料・燃料・生活必需品のすべての補給が絶たれているなかで闘争と人民の生活を維持させなければならなかった。 夜を徹して活動計画が練られた。

徹底抗戦を闘いぬく

「最後通牒」に抗する闘い

 二十六日早朝、戒厳軍は戦車を先頭に市民軍のパリケードを踏みつぶして進入、 一キロほど押しこんだところに陣取ると一般収拾委に対して「何としてでも不純分子や一部の先導者を排除し、 銃器を回収し返納して解散せよ。さもなければ今後いかなる事態に対しても、軍は責任を取ることはできない」と脅した。  

 この情報に、多くの人が朝早くから道庁前に集まった。 決起大会には数万人が結集「武器返納に決死反対」「殺人魔全斗煥を八つ裂きにしてしまえ」と叫び、デモ行進をおこなった。  

 こうしたなかで、民主闘争委員会は闘争の前進のために全力を尽くした。 記者会見をおこない、「機動打撃隊」を組織し、市長らと食料・燃料から道民葬実施にいたる交渉をした。 そして政府に対し「八十万光州市民の決議」として「すべての被害の補償」「戒厳解除」「民主政府樹立」などの要求をつきつけ、 「最後までともに闘う」ことを宣言した。  

 午後には第五回目の民主守護全市民決起大会が熱気をもってかちとられていた。 戒厳軍は三度にわたる「最後通牒」をよこし、ついにその晩中に攻撃する意思を伝えてきた。  

 決起大会が終わるころ、「今夜戒厳軍の攻撃があるだろう」ということが発表されると広場は悲壮な沈黙に覆われた。 敵の増強された軍事力に対しもう一度闘って勝てると思った人はほとんどいなかった。 誰からともなくデモがはじまり、進入してきた戒厳軍の百メートル前で三万入が対時した。 「戒厳軍は撤退せよ」「最後まで闘うぞ」−−叫びがたたきつけられた。

最後の決戦

 一方道庁では投降派が押しかけ放送を使って武器返納をよびかけていたが、民主闘争委員会の青年らにたたき出された。 一般収拾委も全員家へ帰った。決起大会から残った人々が道庁におしよせ「武器返納反対」「最後まで闘おう」と叫んだ。  

 戒厳軍がやってくれば、最後まで抗戦する。全滅するかもしれなかった。  

 残った人々は「最後の晩餐」と互いに言いながら食事をし、部隊編成し、市民軍新兵の射撃訓練もおこなわれた。 道庁を中心に周辺のビルと地域に部隊が配置された。その旦編成されたばかりの機動打撃隊が最後の決戦の先頭にたった。 そのほとんどが零細企業労働者、不安定雇用および失業労働者、靴みがきなどを生業とする青年たちであった。  

 この最後の戦闘をどれくらいの人が闘ったのだろうか。周辺地域の防衛を最後まで担いつづけた人々もいた。 捕らえられ収監された人数は三百五十入余。道庁には夜になって結集した人もおり、明けがたに残っていた人は二百人から五百人といわれる。 戦死者数は道庁内だけで少なくとも百五十人という推定もあるが不明である。  

 「市民のみなさん、戒厳軍がおし寄せてきます。 みなでたちあがり戒厳軍と最後まで闘いましよう」−−明けがた三時まで広報車でのよぴかけは続けられた。  

 明けがた、戒厳軍の作戦は開始された。広報車のよぴかけでとび出してきた青年たちが捕まったり銃撃されたりした。 四時ころ錦南路を中心に激しい銃撃戦が始まった。 そして道庁への一斉射撃が開始され、戒厳軍はまもなく突入した(催眠ガスを撃ちこみ抵抗を封じてから突入したともいわれている)。 道庁を守る市民軍は次々と倒れたが、倒れた仲間の銃に残った弾倉をとりだし実弾が底をつくまで闘いぬいた。 捕らえられた人々は殺人テロにさらされ、またその場で射殺された人もいた。  

 戒厳軍はこの日の作戦で五〇ミリ機関砲まで使用、バリケードにむけて戦車からの砲撃さえおこなった。 一時間四十五分にわたる激しい銃撃戦が闘われ、市内の銃声がやんだのは午前七時半であったという。 投入された兵力は一万七千(二万五千ともいわれる)、戦車百二十両、装甲車数百両、重砲数百門、さらにはミサイルまで持ちこまれた。 「それはまるで敵国の都市に対する攻撃だった」と共同通信の現地報道は伝えた。  

 戒厳軍は道庁占領後光州市を完全封鎖し「脱出しようとする市民はだれでも射殺する」と発表、民家を徹底的に家宅捜査し、 捜査に協力しない家に手りゅう弾を投げこんで皆殺しにしたり、逃げようとする学生・青年らを大量虐殺した。  

 この残虐な鎮圧作戦を後方で支えていたのは実は米帝である。 韓国軍は一部を除き駐韓米軍司令官指揮下の韓米連合司令郡に隷属しており、米軍の同意(二十三日)なしには動員できなかった。 また米帝はフィリピンに停泊中の空母コーラルシーを急派し偵察任務のために早期警戒機を沖縄から出動させていたのである。  

 十日間の蜂起で連行者は二千五百人余りにのぼった。 そして百七十五人が戒厳普通軍法会議に起訴され五人死刑七人に無期懲役が宣告された(一九八二年までに全員釈放)。  

 全斗煥はその後激しい言論への弾圧と闘う者を軍隊送りにしてたたきのめす(「三清教育」)などの弾圧政策をつぎつぎとうち出しながら独裁政権を成立させていった。 この血塗られた支配体制をときの日帝中曽根政権は積極支援し、四十億ドルもの「開発援助供与」をおこなったことも忘れてはならない。

革命的日朝連帯闘争の前進を

 「光州市民は覚えているはずだ。誰が、いつあのような自由を、あの解放感と平和を味わったかを!

 誰が、いつあれほどの秩序ある平和と人間の生命の尊厳を完全に破壊していったのかを!」 (全斗煥政権と米行政府および尹誠敏国防長官に間う)。  敵がどんなに踏みにじろうと、数十万人もの人々が命をかけて闘いともに解放をかちとった歴史と経験は闘う労働者人民のなかに輝きつづけ決して消えることはない。 われわれは闘う南朝鮮労働者人民とともに、この階級闘争史に刻みこまれた勝利と虐殺された人々の無念、 そして未完のままひきつがれた格闘のすべてをわが胸に刻みつけよう。 そして朝鮮反革命戦争粉砕、日米安保粉砕、日帝国家権力打倒、日朝連動するプロレタリア革命の勝利へともに前進していくのだ。


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