「世界」  2011/10  【 以下、無断転載・無断作成 】


報告
女性労働者・キム・ジンスクのクレーン上の闘いと「希望バス」
新自由主義への抵抗拡大する韓国



李泳菜
リー・ヨンチェ 恵泉女学園大学准教授。一九七一年、韓国生まれ。九八年来日、専門は日韓・日朝関係。日韓の市民団体の交流のコーディネーター、韓国語、韓国映画や映像を通して現代を語る市民講座の講師を務める。著書に「アイリスでわかる朝鮮半島の危機(朝日新聞社)」など。



二〇一一年韓国社会の絆『希望バス』

 去る七月九日、暴風雨が吹き荒れる中、全国から一五〇余台の「第二次希望バス」に乗った市民、学生、労動者など一万名余りが釜山に集結した。釜山の韓進重工業・影島(ヨンド)造船所で、整理解雇撤回を要求して一八〇日をこえた座り込みを続けるキム・ジンスク民主労総釜山本部指導委員を応援するためだ。彼らは警祭の阻止線を突破して、彼女が籠城している高さ三五メートルの八五号クレーンまで行こうと全力を尽くしたが、放水銃と催涙液と棍棒で鎮圧する警察の前では無力であった。しかし「整理解雇・非正規職のない世の中を望む希望バス企画団」は第三次希望バス団を大規模に組織して一ヶ月以内に再び釜山へ来ると約束して解散した。

 そして約束どおり、二週間後の七月三〇日、全国五八地域からの約一万五〇〇〇名で構成された「第三次希望バス団」が再び釜山に集結した。警察は今回も彼らの進路を封鎖し、二〇六日目の高空座り込みを続けるキム・ジンスクに希望バスの参加者が会うことを許さなかった。警察とのもみあいの中、三一日午前二時頃、電話で繋がったキム・ジンスク指導員の声がスピーカーを通じて流れ、多くの参加者たちは涙と拍手で歓喜した。

 「催涙液と放水銃にやられ、棍棒に裂かれた恐ろしい昼夜を過ごし、召喚状をもらいながらも再び来てくださったみなさん、本当に涙なくしては挨拶できません。これほど切実な心があるでしょうか。これほど熱い恋があるでしょうか」

 キム・ジンスクは、「希望バス」は、自分をはじめ路止に追い出され、路上でさえも追い回される組合員たちが待ち続けていた唯一の希望であったと重ねて涙ぐみ、最後まで連帯を呼びかけた。大雨の中、第三次希望バス団はキム・ジンスクと直接面会することはできなかったが、第四次希望バス団の企画を固く約束して涙と希望の解散となった。

 一九九七年IMF通貨危機以降、韓国社会では新自由主義の構造調整の影響により、整理解雇と非正規雇用が急増し、社会全体の雇用が非常に不安定になっている。非正規雇用は労働人口全体の四割近くにのぼり、雇用の安定を要求する労働争議が毎日全国各所で行われている。しかし、整理解雇をめぐる労使紛争が起きている地方の一事業所に対して、これほど多くの人々が自発的に集まり、「希望の絆」を結んでいる理由は何であろうか?どうしてこれほど多くの市民が、五〇歳代の解雇労働者キム・ジンスクをこの時代の「希望」と呼んでいるのだろうか?

 韓進重工業の実態と労働運動

 韓進重工業は長い歴史をもつ巨大資本である。それだけに、韓進重工業の労動組合運動の歴史も凄絶である。韓進重工業は造船と建設を主な事業としており、問題となっている影島造船所は、日本植民地時代の一九三七年に朝鮮重工業株式会社として出発した韓国で最も古い造船所でもある。
 一九六〇年代初頭に労働組合が結成されたが、一九八六年までは御用組合として存在していた。韓国社会で民主化運動の熱気が沸騰していた八○年代半ば、「代議員大会に行って来て」という印刷物を配布したキム・ジンスクとその同僚らの解雇をきっかけに劣悪な労働条件を改善しようとする組合員の要求が噴出した。八七年六月の民主化抗争(六・二九大統領直選制を勝ち取った市民抗争)による社会変化の影響は、七〜九月労働者大闘争(労働者の自由と平等を要求した労働争議)へつながり、ついに労働者たちは御用労組を解体し、労働者の直接選挙による「民主労組」を立ち上げた。しかし韓進重工業では、それ以降六人の労組委員長のうち、二名が闘争の過程で命を失い、三名が指名手配と投獄を繰り返した、労働運動の熾烈な現場となった。

 組合員三人の死

 韓進重工業の労組運動が社会的注目を引くようになったのは、九一年バク・チャンス委員長の疑惑の死であった。一九九〇年、バク・チャンスは、組合員九三%の圧倒的な支持で、御用組合に代わって民主組合の委員長に選出された。彼はその後、全国労働組合協議会(全労協)釜山労連副議長、大企業労組会議の共同代表を歴任しながら民主労組運動の最先鋒に立ってきた。

 九〇年、保守三党の合流で軍事政権の延長をはかろうとするノ・テウ政権に対して、労働運動と学生運動は反政府闘争を展開していた。しかし、九一年五月四日、バク・チャンス委員長は、拘置所内で不審な傷を負って病院に運ばれ、五月六日の明け方、病院の裏庭で変死体で発見された(享年三三歳)。警察は、真相究明と責任者処罰を要求する労働者・学生の間を突破し、霊安室の壁をハンマーで壊し死体を奪取して死因を自殺と発表、事件を早期終結させた。今年でバク・チャンス委員長の疑問死から二〇年を迎えるが、未だに彼の死の真実は明らかにされていない。

 バク・チャンス委員長の死の後、韓進重工業の民主労組運動を受け継いだのはキム・ジュイクであった。彼は一九九四年韓国最初のLNG船上ストライキを主導したことで拘束されたが、釈放の後も粘りつよい復職闘争で再び工場に戻って来た。数年間の活動の末、キム・ジュイクは二〇〇一年民主労組運動の旗を掲げて支会長に選出された。再び登場した戦闘的な組合に対して、政権と会社側は労組執行部に対する圧迫と弾圧を敢行した。

 二〇〇二年二月、会社側は労使合意を破って事前通告なく六五〇人の労働者の整理解雇を断行した。労組はこれにストライキで応じたが、会社側は同年五月からキム・ジュイク支会長と一四人の労組幹部を告訴して、組合員一一〇名に対して一八億ウォン(一八〇〇万円相当)の損害賠償請求と財産仮差押を執行した。二〇〇二年当時の韓進重工業は、一兆六〇〇〇億ウォンの売上に二三九億ウォンの当期純利益をあげている企業であった。

 キム・ジュイクは選択の余地がなかった。当時二一年勤めていた彼の月給は基本給一〇八万ウォン(約一〇万円相当)であった。キム・ジュイク支会長は最後の決断を下した。二〇〇三年六月一一日、雨の零れ落ちる夜明け、一人で三五メートル高空にある一〇〇トンの八五号クレーンに上がって「整理解雇撤回、仮差押撤回、解雇者復職」を要求しながら座り込み闘争を展開した。

 国民の関心も余りないなか、警察は随時投入され、会社側の交渉無視と誠意のない対応が続いていた。

 〇三年一〇月一七日、八五号クレーンに上がってから一二九日目、一人で整理解雇撤回の闘争を統けていたキム・ジュイク支会長がクレーン上で首を吊った遺体で発見された。彼が残した遺書の最後の一節は次の通りである。

 「私の死のあり方がどうであれ、私の遺体がいなければならない所は八五号クレーンの上です。この闘いが勝利する時まで、私の墓はクレーンになるしかないのです。私は死んでも闘争の広場を守ります。組合員の勝利を守ります。」

 キム・ジュイクの死があったにもかかわらず、会社の態度はまったく変わることがなく、キム・ジュイクの遺体は、皮肉にも遺言の通りクレーンの上から降りることができないでいた。キム・ジュイクの死後一五日目の一〇月三〇日、キム支会長を最後まで支援しきれなかったことを悲観して、一緒に闘っていたクァク・ジェギュ組合員が造船所のドックに身を投げた。

 クァク・ジェギュ組合員は、バク・チャンス前委員長とキム・ジュイク支会長より先に入社していた先輩労働者であった。キム・ジュイク支会長の死がまるで自分の責任であったかのように罪責感に悩まされていたクァク・ジェギュは、遺体もないキム・ジュイク安置所を毎朝訪れ、膝をまげて涙を流していたという。

 二人の犠牲があってから、会社側は組合員に対する損害賠償仮差押と整理解雇及び懲戒処分を撤回した。経営が難しくて整理解雇をするという会社の話は真っ赤な嘘であった。バク・チャンス、キム・ジュイク、クァク・ジェギュを悼む追慕公園が造船所の中に建てられ、整理解雇の計画は白紙に戻され、解雇労働者たちの多くは復職を勝ちとった。しかしこの時も、組合員キム・ジンスクは会社側の強い反対で工場に戻ることができなかった。

 キム・ジンスクは、キム・ジュイクとクァク・ジェギュの合同葬儀で、韓国現代史で忘れることができない弔辞を読んだ。女性労働者キム・ジンスクの名前が注目されたのはこのときからである。

 「一九七〇年に亡くなったチョン・テイル(七〇年一一月二二日、清渓被服工場の女性労働者の労働問題を訴えながら焼身自殺)の遺書と、世紀を超えた二〇〇三年、キム・ジュイクの遺書が同じである国。(略)奴隷が抱いた人間の夢。その夢をあきらめてでもバク・チャンスが、キム・ジュイクが、その値千金の人々が帰って来ることができるなら、その堅い肩をその純朴な笑いを、もう一度また見られるなら、ヨンチァンやエラン(バク・チャンスの子ども)に、ジュンヨッブ、ヘミン、ジュンハ(キム・ジュイクの子ども)にパパをまた返してやることができるなら、そうしてあげたい。資本が主人である国で、資本が天国である国で、何のために人らしく暮らしたいという夢を敢えて抱いたのか? 何のためそんなに善良に、何のためにそんなにバカ正直に生きたのか?」(キム・ジンスク「チョン・テイルとキム・ジュイクの遺書が同じである国」(第三章)『塩花の木』フマニタス)

 キム・ジュイク支会長とクァク・ジェギュ組合員の合同葬儀場でのキム・ジンスクの弔辞は、当時、新自由主義政策を実施して労働者を路上に追い出していたノ・ムヒョン政府に対する労働者たちの叫びでもあった。

 ノ・ムヒョン時代の労働者の死

 キム・ジュイク支会長が八五号クレーンに上がり、クァク・ジェギュ組合員が造船所のドックへ身を投げた時代、皮肉なことに韓国の大統領はノ・ムヒョンであった。当時ノ・ムヒョン政権は新自由主義的な構造調整を標榜して、産業界での労働者大量解雇を放置していた。ノ大統領はキム・ジュイクの死に対して「死が闘争の手段になる時代は終わった」と言い放った。彼が労働弁護士だった時、韓進重工業の解雇労働者として復職闘争をしているキム・ジュイクの顧問弁護士であったことを知る人は少なくなかった。

 キム・ジンスクの言葉を借りれば、むしろ「彼の時代に最も多くの労働者が馘(くび)になり、最も多くの労働者が拘束され、最も多くの労働者が非正規職になり、最も多くの労働者が死んだ」のである。

 ノ・ムヒョン政権は軍事独裁時代の国家暴力を清算するいわゆる「過去事清算」を実施して、政治の民主化を実現しようとした。また第二次南北首脳会談を実施して、南北の平和共存の制度化を実現しようとした。しかし庶民の大統領を標榜していたにもかかわらず、実際、彼の時代に新自由主義グローバリズムが積極的に推進され、貧富の格差はさらに激しくなった。それでもノ・ムヒョン政権は「企業活動しやすい国」を約束して、三星と現代財閥など大企業を重視する一方、労働者・民衆を遠ざけた。しかしそんな彼も、二〇〇九年五月二三日、歴史の敗北者となって一人寂しく自宅の裏山から飛び降りて死を迎えた。悲しい庶民大統領の死であった。

 キム・ジンスクは二〇〇九年のノ・ムヒョン前大統領の死に際しても、「ノ・ムヒョンを夢見て」という追悼詩を詠んで複雑な心情をあらわした。

 「死が闘争の手段になる時代は終わった……そのお話。特に労働者たちには苛酷でした。……そんな時代は本当に過ぎ去ったのでしょうか。崖っぷちに立たされた労働者たちにとって、たびたび生と死は表裏体であることを……私はあなたを否定したいのではなく、あなたを乗り超えたいのです。善良な人の支配する世の中ではなく、支配がない世の中を夢見ました。しかしあなたの時代に、その夢は最も虚しく支離滅裂でした」

 バク・チャンス、キム・ジュイク、クァク・ジェギュ、ノ・ムヒョン。四人の運命はそれぞれ異なったが、その終りは同じであった。新自由主義グローバル時代、無慈悲な国家暴力と資本の利益による「社会的他殺」という点で彼らの死は共通点がある。ひとときは同志だった人々であったが、人生の道は互いを敵と同志に分けた。結局彼らは死をもって韓国社会の希望を話そうとした。しかし、彼らが死を賭して夢見た韓国社会はまだまだはるかに遠い。

 変わらない資本の本質

 バク・チャンス、キム・ジュイク、そしてクァク・ジェギュの命を奪った韓進重工業は、昨年一二月一五日、直近三年間新規受注ができなかったために経営悪化による構造調整が不可避であるとして、再び生産職労働者四〇〇人を希望退職させると労組に通告した。]O年の間、数万入いた労働者数は八〇〇人余りを残してほとんどが解雇され、残り大部分も非正規職になった。二〇一〇年だけで非正規職を含め三〇〇〇人余りが解雇、三〇〇人余りが強制休職となり蔚山工場はついに閉鎖された。経営の危機がその理由であった。

 しかし二〇一一年二月一〇日、野党四党と全国金属労働組合の主催でソウル汝矣島国会図書館で開かれた「韓進重工業整理解雇の争点と代案」という緊急シンポジウムで、韓進重工業の整理解雇の理由とされた経営上の理由が誇張され歪曲されていることが明らかにされる。

 シンポジウムに出席したソン・ドクヨン会計士によれば、韓進重工業は二〇〇八年と二〇〇九年に、それぞれ一五.八%、一九・七%の営業利益率を達成し、三星重工業や大字造船など競合他社の二倍以上の利益を上げている。会社側は三年間の釜山影島造船所の受注実績が「ゼロ」と言うが、系列会社のフィリピン・スービック造船所の受注量を見ると、昨年の売上に対する受注額の割合ばほぼ同じレベルだろうという分析である。

 韓進重工業は影島造船所の労働者の高賃金によって、競争力が低下し受注につながらないことを整理解雇の理由として挙げている。しかし二〇〇九年度基準の韓進重工業労働者の平均年収は四五七六万ウォン(三七〇万円程度)で、大宇造船の七一九〇万ウォンに比べて大きなひらきがある。事務職及びエンジニアを除いた現場労働者らの給与はもっと低いとみられている。

 すなわち韓進重工業の損失は、利子負担や持分法損失など経営失敗、あるいは経営構造の転換過程で出たものであるにもかかわらず、これを労働者に転嫁し雇用問題へと変質させようとしているという指摘である。

 会社の整理解雇通告に対して、韓進重工業労組は直ちに行動を開始した。通告五日後にはゼネストに突入し、一二月二八日からは、組合員一〇〇〇名余りが参加して整理解雇全面撤回を要求する徹夜の座り込みに突入した。同時期、一九八六年の韓進重工業労組民主化のための活動により解雇されて以来、二五年間も復職闘争を続けているキム・ジンスク(民主労総釜山本部指導委員)も会社の前でテントを張って断食座り込みに突入した。それでも会社は一切の団体交渉に応じなかった。整理解雇名簿の強行発表を譲ろうとしない会社側に対して、発表の前日一月六日、キム・ジンスクは最後の選択として悲劇の八五号クレーンの冷たい手すりに掴まり、三五メートル上空での高空座り込みに入ったのである。キム・ジュイク支会長とクァク・ジェギュ組合員の死から八年が経過していたが、韓進重工業の本質は一つも変わっていなかったのである。

 時代の希望・キム・ジンスク

 キム・ジンスクは、貧農の家に生まれ、配達員、バス案内など様々な仕事を経験した後、二五歳で韓進重工業に初の女性溶接工として入社した。しかし二六歳の時、劣悪な労働環境の改善を要求し、御用組合を民主組合へと変えようとした労働組合運動を理由に解雇された。復職闘争を理由に公安警察に三回連行され、二回の懲役、手配生活五年の経歴をもち、現在五二歳の解雇女性労働者である。

 八年前にキム・ジュイクとクァク・ジェギュの死によって守られた労働者の生存権が再び脅かされている現在、キム・ジンスクにはそれ以外の選択肢は残されていなかった。彼女が同僚に残した手紙には、八五号クレーンに登る彼女の悲壮な気持ちが記されている。

「平凡ではない人生を送ってきて数多くの決断の瞬間があったけれど、今回の決断ほど煩悶としたことはありませんでした。私には八五号クレーンの意味が分かるので、去る一年、座っても針の座布団の上にいるようで、横になってもトゲの敷き布団の上のようでした。……こんなにも多くの組合員たちがクビにされていくのを見過ごすわけにはいきません。座ったままやられるわけにはいかないのです。これ以上は避けることができない、正面からぶつけなければならない闘いだと思いました。私は韓進重工業の組合員たちがいなければ生きる理由のない人間です。私はできること全てをかけて、私たちの組合員を守ります。」

 被女は八年間、亡くなったキム・ジュイク支会長のクレーン上での生活を思って、部屋のオンドルはつけずに生活していたという。そんな彼女がクレーンに上がる二日前、八年ぶりにオンドルのボイラーをつけたという。彼女は「八五号クレーンの意味が分かるので」、「煩悶した」と言うがその煩悶はいったいどれほどのものだったろうか。

 しかし会社側は直ちに、キム・ジンスク指導員を相手にクレーン上から退去することを要求する仮処分申請を裁判所に提出した。そして釜山地方法院は、彼女に一日に一〇〇万ウォンずつ韓進重工業に支払うことを命ずる判決を下した。またその最中も、韓進重工業は六回にわたって希望退職者の申込みを受付け、計画通り一七〇人の労働者を整理解雇して、釜山の影島造船所と蔚山工場などを閉鎖した。そして、座り込み中だった労働者たちを造船所の外へ引きずり出し、ギム・ジンスクのいる八五号クレーンの電気と食糧供給を断ち、希望の明りを消し去ろうと躍起になっていた。韓進重工業の闘争はピークを迎えようとしていた。

 消えかけた希望の明りを探して、キム・ジンスクはツイッターに「私は生きたいです…… 」と書き込んだ。キム・ジュイクの死を連想させる一触即発の時期、希望が消えようとしていたその時、キム・ジンスクの心の叫びに呼応して、驚くほど多くの人々がバスをレンタルして釜山に続々と集結した。まさに「希望のバスであったのである。

 労働者と市民の「弟望の連帯」

 六月一二日、一般市民と社会運動団体で構成された「第一次希望バス団」約三〇〇〇人余りがキム・ジンスクと韓進重工業組合員たちを応援するために釜山に集まってきた。キム・ジンスクは「こんな日が来るとは思わなかった…… 」とツイッターに感激の言葉を書き込んだ。二〇一一年七月九日、暴風雨の中、今度は全国から一五〇余台の「第二次希望バス」に乗った市民・学生・障害者など一万名余りが応援に駆けつけた。そして前述の通り、二〇一一年七月三〇日、全国五八地域の約一万五〇〇〇名で構成された「第三次希望バス団」には、多数の政治家や著名人なども参加して、キム・ジンスクと韓進重工業の組合員の闘いに連帯した。八七年以降、労働運動は徐々に社会運動の中心から離れて、大企業・男性・正規職中心の貴族運動であるとまで批判されていたが、いま一般市民が再び労働運動に連帯する驚くべき変化が起きたのである。

 最初、ネットでキム・ジンスクの応援を呼びかけたのは、詩人ソン・キョンドンであった。「『解雇は殺人だ』というキム・ジンスクの一言は、新支由主義の大韓民国を生きている非正規職労働者のすべてを表現している」といい、「希望バスで希望をつくろう」という呼びかけであった。これに応じて、希望バスには全国から多様な階層の多様な人々が自発的に参加した。雇用安定を要求して闘争中の双竜自動車や油性企業などの労働者たち、違法派遣中止と正規職化を要求して争議中の現代自動車の下請労働者たち、劣悪な労働環境の改善を叫ぶ障害者、授業料半額値下げを要求する大学生たち、教授・一般市民など、多様な人々がキム・ジンスクに連帯して全国から集まった。彼らは、韓進重工業の組合員たちの立場は「他人事ではなく、まさに現在の我々の姿である」と言い、固い結束と連帯を表明した。

 労働者として長い間、弾圧され続けてきた彼女。仲間の犠牲を自分の犠牲よりも痛く受けとめてきた彼女。弱者を切り捨てないで弱者との連帯を自ら実践してきた彼女。「希望バス」に乗った多くの人々は、社会の正義を守るために闘っている彼女の姿に、「申し訳なさ」と「心苦しさ」を感じていた。

 韓国社会は、一九七〇年二月、チョン・テイルの焼身自殺をきっかけに労働問題と人権問題が民主化運動の主な課題として提示されてきた。八七年六月民主化抗争以降、約一〇年間、真の民主化実現を要求する時代があったし、キム・デジュン(九八年−二〇〇二年)、ノ・ムヒョン(二〇〇三−二〇〇七年)の一〇年間、民主主義を定着させようとした民主政権一〇年を経験した。しかしチョン・テイルの死以降、四〇年の間、労動者の人権と権利はどれほど改善されてきただろうか? チョン・テイルが生きた時代の労働者の子供達の夢は「大統領」や「判事」であった。しかし、二一世紀を迎えて一〇年が経過した今日、子供達の夢は「正規職」である。親の夢と子供の夢がともに「正規職」である韓国社会の現実。民主政府二〇年とも言われていた歳月はいったい何だったのだろうか?

 民主化の時代であったにもかかわらず、競争に勝ち残るために弱い者を踏み潰して、自分の利益を考え生活してきた多くの人々の眼には、キム・ジンスクの闘いは非正規職や弱い立場の人々を守ろうとするこの時代の正義であり、良心として映っていた。新自由主義やグローバリズムの時代、整理解雇と非正規職の増加は避けられないと認めてきた我々に対して、彼女は「そうではない」という当たり前の事実を改めて教えたのである。彼女は、弱者の犠牲の上に成り立つ現在の社会システムを、我々の力で変えることができるという希望を見せてくれたのである。そんな彼女がクレーンの上から生きて降りることができなかったら、この韓国社会でこれまで闘ってきた民主化はなんだったのか。自分たちが沈黙して、彼女が生きて降りることができなくなったら、その罪責感は一生消すことはできないだろうと多くの人々が予感しているからこそ、翌日の仕事に行かず、家族や子どもをつれて希望バスに乗る、連帯のエネルギーがもたらされたのである。

 韓国民主化の深化としての「希望バス」

 希望バスはついに政治家も動かした。八月一八日、高空座り込み二二五日目、そしてクレーンの中間でキム・ジンスクを守っている四人の死守隊が座り込み五三日目を迎えた日、与野党の政治家は韓進重工業の趙南鎬会長を国会環境労働委員会の聴聞会に証人として呼び、事態の収拾に向け行動を始めた。また八月二〇日には野党五党、労働界、市民社会、学界、法曹界など各界団体の代表者たちがソウル市庁広場で、「八・二〇希望の時局大会」を開いて「韓進重工業問題の平和的解決」と李明博政権の親財閥で反労働の政策転換を訴えた。

 二〇〇八年、韓国では米国産牛肉輸入反対のための一〇〇万キャンドル集会が行われた。それは個人の食の安全が侵害されることに対する一般市民の自己権利追求の個人的な側面もあった。大統領の横暴に対して、個々人が民主主義のプロセスを訴えた側面もあった。ところが、「希望バス」はそれをさらに深化させ、人間を排除したまま利潤のみを追求する新自由主義化の波に抗って、労働者・民衆の生存の叫びに呼応して市民のあり方が変わっていく、まさに「希望の連帯」として登場している。

 キム・ジンスクの闘いと「希望バス」の取り組みは、個人の利益を乗り越え、人間に対する礼儀、人間の尊厳、社会的弱者に対する関心と連帯、正義と希望に対する渇望を遺憾無く見せてくれている。それは韓国民主化運動が更なる発展を遂げて、人間の顔をもつもう一つの社会を目指そうとしている歴史的な場面でもあるだろう。民主化二〇年の経験の中で、韓国の人々はキム・デジュン、ノ・ムヒョン政権を経験しながら、民主主義の進展のなか、新自由主義を受け入れてしまった。しかし李明博政権の保守時代を経験すると、民主主義と新自由主義は両立できないことに気づいていった。「希望バス」は、まさに韓国市民社会がさらなる韓国民主化の深化をリードしている自発的な市民運動だからこそ感動的なのだ。

 キム・ジンスクは、キム・ジュイク支会長の追悼式で次のように述べている。「彼らが正しくて勝つのではなく私たちが連帯しないから負けるのだ。常に私たちだけが死んで、常に私たちだけが敗れるのだ。いくら泣き崩れて抵抗しても、彼らの手の内からいっときも抜け出すことができない。この胸裂かれる怒りと血が逆行するこの悔しさをいつか晴らさなければならないじゃないか」

 キム・ジンスク同志、この悔しさをいつか晴らすためにも、生きて闘って勝たなければならないじゃないですか。目の前に一つ一つ希望のキャンドルが集まっている。八月二七日、ソウル市庁の広場で、「第四次希望バス」の更なる連帯が展開されている。私も、必ず勝利して生きて降りられるように連帯します。




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