万国の労働者団結せよ!
発行者 現代社

東京都杉並区下高井戸1-34-9

革命的労働者協会
(社会党・社青同 解放派)

【解放 987号 (2011/8/15) 《論文》 】【 以下、無断転載・無断作成 】



松崎明の絶望死とJR総連革マルの危機


第1回 JR総連革マルの破産と松崎の死 (「解放」987号)
第2回 松崎(革マル)の動労−JR総連の反革命支配とその破産 (「解放」988号)
第3回 革マル労働運動批判と解体戦方針 (「解放」989号)



第一回 JR総連革マルの破産と松崎の死


国労大会、「国鉄闘争終結」を宣言

 七月開催された国労大会で国労本部は「国鉄闘争終結」を宣言し、闘争団解散と同時に組合規約を改悪しその組合員資格剥奪を決定した。国労本部は、闘争団員と戦闘的国鉄労働者を排除し、国労解散のうえで帝国主義労働運動=JR連合に合流しようとしている。

 昨年四月九日、四者・四団体(国労闘争団全国連絡会議、鉄建公団訴訟原告団、鉄道運輸機構訴訟原告団、全動労争議団の四者と、国労、建交労、国鉄闘争支援中央共闘、国鉄闘争共闘会議の四団体。動労千葉は排除さわている)は、国交省との間で「政治和解」を取り結んだ。それは、すべての訴訟を取り下げ、今後不当労働行為や雇用について争わないこと、しかも雇用確保は保証しないという全面屈服の内容だった。四者・四団体が言ってきたような「雇用、年金、解決金」確保とはほど遠い内容だ。

 四者・四団体は事実上この時点で雇用確保は取り下げ、あとは闘争団解体と国労内戦闘的労働者つぶしに全力をあげた。

 今年になって六月十三日、JR七社は国交省から出された雇用要請に対して拒否を回答した。四者・四団体は六月二三日には雇用拒否を受け入れ(建交労は不同意)、六月三十日には解散した。

 一九八七年の国鉄分割民営化攻撃は、国鉄労働運動のみならず戦後階級闘争の解体攻撃であった。当時の首相中曽根は「行革でお座敷を綺麗にして立派な憲法を安置する」「国労をつぶし、総評・社会党を解体することを明確に意識してやった」と公言していた。

 国鉄労働者、闘争団員の二十四年にわたる闘いを踏みにじり、不当労働行為をもって、十万もの国鉄労働者を解雇し二百名もの労働者を自殺に追いやった日帝国家権力、JR会社が、涙金の「和解金」(「解決金」とすら呼ばせない)を支払って、雇用ゼロで居直るのを許してはならない。国鉄分割民営化攻撃は、その後の公共企業体の民営化や外注合理化、労働者の「非正規」化攻撃の突破口となったのであり、ひとり国鉄労働者の問題ではなく、労働者階級全体の闘いの展望に関わる問題だ。

 この連載で暴露するように、国鉄分割民営化は動労革マル−JR総連革マルの国鉄分割民営化攻撃の先兵化−国鉄労働運動破壊の敵対なしには、貫徹しえなかった。革マルは国鉄労働者の敵、全労働者の敵だ。

 七月国労大会の「国鉄闘争終結」宣言と闘争団解散攻撃は、国労本部が国家権力・JR会社と組んでおこなったものだ。国労本部は、国鉄労働者−闘争団労働者の敵であり、戦後の戦闘的国鉄労働運動を清算・解体し帝国主義労働運動への合流・一体化をめざしている。

 第一に、われわれは、「和解」を拒否し「国鉄闘争終結」に反対し闘う国鉄労働者とともに闘う。この闘う国鉄労働者は〇九年反安保労研全国研究交流集会につぎのような感動的なアピールを寄せている。このアピールは、われわれのこの闘いの確信だ。「四者四団体はブルジョア政権にお願いして政治解決をというが解雇撤回が実現するわけがない。 『いくらかの解決金をもらって闘争終結したい』が四者四団体の本音である。しかしこれは許されることではない。二十年以上解雇撤回闘争を支えてくれた多数の労働者の支援をうらぎって闘争終結はできない。一〇四七名闘争は当該だけの闘争ではない。労働者階級全体の闘いなのだ。この闘争にどれだけ多くの労働者が励まされてきたかはかりしれない。今の四者四団体の行っている政治解決に反対する。私は国鉄闘争の再生そして労働運動の前進のために闘います」(「解放」九四八号掲載)。

 第二に、いま国鉄職場では大合理化攻撃がかけられている。これを許してはならない。新人事・賃金制度や全面的な業務の外注化攻撃であり、競争と分断で労働者の闘う団結をバラバラにし、資本のもとへのさらなる搾取・隷属を強いる攻撃だ。これはかならず第二、第三の「福知山線事故」をひきおこし、国鉄労働者を列車事故で虐殺する攻撃だ。

 第三に、JR総連革マルを打倒しよう。JR総連革マルはいま使い捨ての危機にある。国労本部はJR東日本資本に取り入りJR総連革マルの代わりに自分たちを「労働代官」として売りこもうとしている。この国労本部を打倒し、松崎の死で混乱の極みにあるJR総連革マルをせん滅せよ。まさに「おぼれる狗の頭を叩き」、JR総連革マルを完全に解体しなければならない。

絶望死した松崎

 二〇一〇年十二月九日、反革命革マル最高指導部・松崎明が死んだ。

 われわれは同志中原虐殺指令者の一人、松崎の打倒をこの三十四年間追求してきた。松崎は「一九七八年までは革マルだった」と公言し、みずから同志中原虐殺を指令したことをみとめていた。松崎は生涯現役の革マルであり、革マル最高指導部として死んだ。松崎を打倒できないままに死なせたことは〇六年六月、反革命頭目黒田寛一を打倒できずに死なせたことにつづく、プロレタリア革命運動にとっての痛恨の事態であり、われわれはこの悔しさを二・一一報復、革マル解体・絶滅の戦意に変え、全労働署人民にその完遂を誓う。

 反革命革マルは松崎の死にさいし、文字どおり一言も発しないという異様な対応をとつている。

 革マルは黒田の死にさいしては、個人崇拝の限りを尽くして「地上の太陽」だの「現代のマルクス」だのと喧伝してきた。打倒された革マルに対しては反革命通信に追悼文を掲載してきたが、それ以外の革マル分子の死に対しては一切沈黙してきた。周年ごとの追悼辞もない。

 松崎の死に対しても同様だった。革マルは一切言及せず、革マル組織の決定としてすべての革マル分子が沈黙した。これこそ松崎が現役の革マルとして死んだことの証左であろう。

 木元グループは、松崎が「革マル中央と組織的に決別」し、「政治組織と位置づけた『国際労働総研』」を松崎派独自の党として作ってきたと言うが、そのデマ性、革マルの「松崎・JR総連革マルは革マルではない」論のお先棒を担ぐ、親革マル、第二革マルぶりが、これで明らかになったとも言える。

 本年三月三日、「松崎明さんを偲ぷ会」がもたれた。JR東日本経営陣からは、常務の参列にとどまった。八八年の同じ三月三日に中核派にせん滅された東鉄労高崎地本委員長松下勝の葬儀には、当時の副社長山之内、高崎支社長原山らJR東日本幹部が多数参列していた。これはJR東日本の東労組に対する労政の変化を象徴している。

 一水会のファシスト木村三浩が参列し、公安調査庁のスパイ宮崎学が弔辞を読む。「JR総連聞き取り研究会」を組織し「松崎は革マルではない」とデマ宣伝を重ねてきた戸塚秀夫が[松崎は革マルではない」とくりかえすはなから、元外交官の佐藤優が「松崎は黒田の反スタ思想と疎外論は生涯捨てなかった」と「松崎=革マル」論をえん曲に語る。

 松崎の死は、松崎−JR総連革マルの総破産のすえの絶望死であった。

 『われらのインター』四〇号(一一年二月号)に松崎が死の床で詠んだ俳句が掲載されている。

 「D型もD民同へ涸谷に」

 この句を編集部のJR総連革マル分子は、「松崎さんの創りあげてきた動労型労働運動の伝統は、国鉄民営化の試練やその後の激しい弾圧に耐え、未来に受け継がれるはずだった。それが今、ややもするとかつての輝きを失い、岩屑の転がる涸れ谷のような日本労働運動の現状に埋没しようとしている。病の中で松崎さんの心を苛んだこの深刻な危機感」を詠っていると解説する。

 死を目前にした松崎を襲った絶望感は「深刻な危機感」といったものではすまされなかった。松崎が生涯かけて作ってきた動労型労働運動が、いまは水が干上がった冬枯れの涸れ谷のように衰微し、かつて豊かな水がとうとうと流れ下った緑なす渓流の面影はすでにないという絶望感を詠っている。その「豊かな水」がしょせん、国家権力とJR資本が日本労働運動破壊の反革命にあてがった臭いカネであり新採用社員のJR東労組への優先振り向けなどであったことをよく知る松崎が、開始されたJR東日本労政の転換を察し絶望して詠んだ句だ。

 松崎の「偽装転向」の片棒を担ぎ、「松崎は革マルではない」「JR総連革マルは革マル中央派と分裂・絶縁した」と触れ回って、党派としての革マル、JR総連革マルの延命に手を貸してきたのが、木元グループだ。松崎が現役の革マルであり、JR総連革マルが党派としての革マルの労働戦線の中核的部隊であることは、この論考でこれから具体的に明らかにするにして、ここではこの松崎・JR総連革マルと黒田・革マル中央派が分裂したと主張することの、論理的帰結を指摘しておく。

 「松崎は革マルではない」「JR総連・松崎革マルは革マル中央から離反・分裂した」と主張することは、少なくとも松崎・JR総連革マルはすでに革マルではなくなったのだから解体戦の対象ではない、ということを意味する。またこの主張は、革マル解体・絶減戦の「基本的勝利論」であり、そこには革マル解体・絶滅戦からの召還、革マルとの停戦と親革マル分子としての共存を願うという利害がふくまれている。

 われわれはこの連載の第三回で、木元グループの対革マル投降と親革マル分子としての析出・転落の事実を暴き出すだろう。

松崎・JR総連革マルの破産と反革命敵対

 いまJR総連革マルはJR東日本資本から使い捨ての危機にある。

 元JR東労組委員長の石川尚吾は『われらのインター』一一年二月号でつぎのように語る。

 「昨年九月ころ、突如として労働組合活動の規制が顕在化したんです。たとえば、組合員が転勤時に『お世話になりました』という意味でお菓子を職場においていく。これを組合掲示で知らせたら『組合活動だ』『外せ』と会社がいってくるんです。

 あるいは日勤職場で十七時三十分以降は助役がいないから会議室は貸せないと会社はいうんです。…今まででは考えられません。それが今起きているんです。

 まるで七〇年前後のマル生当時かと錯覚します。だとしたら堂々と受けて闘うしかないですね。これが国鉄改革を共にした労使関係なのかと思いますが」。

 この労働組合活動の規制強化の背後にあるのが、JR職場でかけられている新人事・賃金制度の攻撃だ。JR東日本は、今年一月にこの新人事・賃金制度を提案し四月実施を通告していたが東日本大震災で延期され、新たに来年四月実施を通告してきている。この新人事・賃金制度は基本給をなくし出来高払いの低賃金を強制し、労働者相互の競争をあおりたててその団結を解体する攻撃だ。攻撃対象は青年労働者であり、競争と分断を強い、低賃金でこき使おうとするものだ。

 JR東日本はこの間、JR東労組の反撃力がなくなっていることを見透かしており、かさにかかった攻撃を重ねている。

 JR東日本がJR東労組をなめる転機になったのが、〇八年三月に妥結した「ライフサイクルの深度化」攻撃だ。首都圏七支社の運転士職の労働者全員を四十歳までに駅に異動させ、駅での五年間勤務後、六〜八割を運転士に復帰させるが、残りの二〜四割を駅に配属するという合理化攻撃だ。運転士職の削減と駅勤務への配転攻撃であり、運転士職を拠点とするJR東労組の強い抵抗が予想されたが、JR東労組はこの攻撃に易々と屈し配転に応じた。

 この春から「ライフサイクルの深度化」施策を担った第一陣が職場に復帰しはじめたが、運転士職に戻れない労働者が続出し、現場には不満が渦巻いている。

 嶋田グループとの組織的対立と混乱、JR連合の追い上げと組織人員の減少に追いつめられた東労組−JR総連革マルは、JR東日本の合理化攻撃につぎつぎと屈服し、まさに使い捨ての危機にさらされている。

 死の床で松崎の「心を苛んだこの深刻な危機感」は、この使い捨ての危機であった。

 この危機を生んだのは、ほかならぬ松崎自身だ。

 権力・資本のJR総連革マルへの強まる包囲網に対し、松崎はいっそうの権力・資本への屈服とその走狗化でこたえてきた。松崎は〇七年、JR総連内に「国際労働総研」なる組織をたちあげその会長職に納まり、機関誌『われらのインター』を発行しはじめた。

 『われらのインター』は、生涯「黒田の弟子」を自認した松崎が五十数年にわたる反革命活動のすえにたどりついた反革命としての思想的荒廃のきわみを如実に示している。

 第一に、その核心は民族主義的愛国主義であり、天皇主義である。

 松崎ぱ戦前の皇道派ファシストにおのが心情を重ね次の句を詠んでいる。「雪が降る、二・二六の『義』を想う」(『われらのインター』〇九年四月号)。

 「義」とは、皇道派ファシストが唱えた天皇親政の天皇主義国家樹立の「義」であり、戦争とファシズムで労働者人民の闘いと団結を解体し血の海にたたきこむ「義」である。

 さらに九三年十月、朝日新聞社東京本社で拳銃自殺した野村秋介を「野村烈士」と呼んで敬愛し、一水会のファシスト鈴木邦男らと親交を重ね一水会機関紙「レコンキスタ」の定期購読をJR東労組組合員に勧めている。

 ついには皇后ミチコを尊崇し、ミチコの子守歌を「とても素晴らしかった」と激賞するにいたる。

 「うまい、とか、へた、とかいう問題ではない。

 そこに美智子さんを見た。

 母を見た。人間を見た。

 ということ。」と褒めそやしている。

 「いま、問われているのは、日本の独立であり自立である」と語り、反米をかかげ日本の独立をかちとろうとしているから彼らファシストを支持するのだという。

 ここで、松崎は晩年の黒田の露骨な反米愛国思想−日本民族主義とすっぽりと接合する。

 反米愛国の民族主義として出発した黒田は五十年間の反革命活動を経て、いままた反米主義的愛国主義を煽動する。かつて五一年十二月 めることによって目覚めさせられた一青年」(「まえがき」)として反米愛国を称揚した黒田は、この駄本で「アメリカ国家こそは、現代技術文明の悪の権化」であり「ヤンキー精神」の「自己過信」「傲岸な言辞」に「天罰」(!)が下るだろうと反米民族主義を煽動する(本紙〇七年四月十五日付第八八三号掲載多岐川走署名論文参照)。

 第二に、戦闘的闘いを解体し革マル組織の延命のために、右翼ファシストと元左翼転向分子の「左右融合」策動を進めている。

 ファシスト鈴木邦男や大村三浩などの一水会人脈、元日共の公調スパイ宮崎堂や、元「労働情報」の樋口篤三、元協会派山崎耕一郎や元日共新日和見主義派川上徹などを『われらのインター』に呼び集め、「松崎は革マルではない」「JR総連革マルは革マルではない」 「浦和電車区事件(JR連合系組合と接触したJR東労組組合員を、JR総連革マルがつるしあげたということで逮捕、起訴された事件。一審、二審とも有罪で、現在最高裁に上告中)は冤罪だ」といった、松崎・JR総連革マル擁護の論陣を張らせている。

 かつて国鉄分割民営化を目前とした一九八七年二月に松崎は、元警視総監秦野章と対談し、転向を表明し、分割民営化推進を宣言した。また同じ二月にファシスト勝共連合機関紙『世界日報』のインタビューに応じ、社会主義との決別宣言、スト絶滅と「自衛隊・核・原発」容認を明らかにする。そしてその七月には再度『世界日報』で、「ストはやらない」「組合も日の丸を掲げるべきだ」と発言している。

 このことは、これが分割民営化推進のための「偽装転向」宣言だったのではなく、権力の手先、右翼ファシストと一体の愛国主義、民族主義の労働運動が松崎の信条だったということである。

 第三に、戦後日本階級闘争の拠点・国鉄労働運動を廃墟化しようとした松崎は、『われらのインター』によって意識的に新左翼運動の歴史的拠点の破壊を策謀した。

 まず足繁く沖縄に通い沖縄の戦闘的人士に接近し、その取りこみと解体・破壊を策動した。とりわけ沖縄戦で「集団自決の強制はなかった」という教科書検定意見の撤回を求め闘ってきた沖縄の戦闘的人士に接近し撹乱をはかっている。

 さらに三里塚闘争の破壊・撹乱をはかっている。松崎は、三里塚闘争を「否定した自分を反省しなければいけない。私が皆さんとお会いした時に、済まなかったとお詫びしなければと思った」と語る。しかし、「成田の農民たちの生きる権利を奪う土地収用法による農民たちの土地の暴力的収奪。そしてそれは軍事大国化にも反対する心ある人民の闘い」に対して、革マルは、松崎・動労革マル自身は何をしてきたのか?

 七一年には野戦病院車両を襲撃し、七七年三里塚全国闘争の当日には京葉道路に鉄クギをばらまいて三里塚決起を妨害した。戸村委員長の死去に対しては「戸村が死んでおめでとう」なる黒枠葉書を送りつけ北原事務局長を「権力のスパイ」呼ばわりした。その三里塚闘争に対する敵対・破壊は数知れず、革マルは三里塚闘争から永久に放逐された。なによりもジェット燃料貨車輸送阻止を闘う動労千葉に対して、執ような襲撃を加えたのは松崎・動労革マルである。

 反革命革マルは、狭山−部落解放闘争の歴史的な敵対者であり、部落抹殺論をもってする差別主義者である。七七年八・九上告棄却をうけて、反革命革マルは「未解放部落の存在に起因する種々の差別事件」と、”部落かあるから差別かある”という極悪な部落抹殺論を展開した。いま、JR総連革マル−反革命革マルはJR革マル分子田城郁(たしろかおる)などをとおして、狭山闘争への差別主義破壊潜入を策している。

 東大安田砦決戦から逃亡・敵対した革マルは、東大闘争−全国教育学園闘争の敵として全国・全戦線でたたき出された。いまになって松崎は、「東大闘争に参加しなかった」反省を語る。機動隊の背後から、東大闘争に敵対した革マルが、歴史を偽造・歪曲しようとしているのだ。

 沖縄人民解放闘争、三里塚闘争、狭山−部落解放闘争、そして東大闘争に対して、松崎が言うように「革マルが闘わなかった」だけではない、闘いの破壊をねらって執ように介入と敵対をくり返してきたのだ。

 一〇年五月二十三日、九州でおこなわれた最後の講演で松崎は、国鉄分割民営化当時の金丸信はじめ権力者との交友を自慢し、一水会鈴木邦男と野村秋介との親交を語る。そして、「いまこそ日本の独立が必要だ」と公言している。

 これが松崎最後の言葉であった。松崎は労働者階級人民に敵対して、権力・資本と右翼ファシストと隊列を組み、日本の独立のために闘おうと訴えた。死せる黒田と同じく、反米愛国の日本民族主義の泥沼におぼれ絶望死をとげた松崎は、労働者階級の敵として打倒されるべき骨の髄からの反革命であった。

 松崎−JR総連革マルの反革命敵対の数々を白日のもとにさらし暴き出し、その怒りを二・一一同志中原虐殺報復、革マル解体・絶滅の戦意へと転化させ、解体・絶滅戦の爆発−完全打倒戦闘を闘いとろう。



 (→ 第2回 松崎(革マル)の動労−JR総連の反革命支配とその破産 )


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