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万国の労働者団結せよ!
発行者 現代社

東京都杉並区下高井戸1-34-9

革命的労働者協会
(社会党・社青同 解放派)

【解放 987号 (2011/8/15) 《論文》 】【 以下、無断転載・無断作成 】



松崎明の絶望死とJR総連革マルの危機


第1回 JR総連革マルの破産と松崎の死 (「解放」987号)
第2回 松崎(革マル)の動労−JR総連の反革命支配とその破産 (「解放」988号)
第3回 革マル労働運動批判と解体戦方針 (「解放」989号)



第二回 松崎(革マル)の動労−JR総連の反革命支配とその破産


革共同第三次分裂と動労革マル

 一九六三年革共同第三次分裂によって誕生した革マル派は、学生部隊のほかは労働戦線では国鉄労働運動−動力車労組に一定の部隊を持っていた。六一年に初代動労青年部長になった松崎は、第三次分裂に際し革マル派副議長に就任した。

 第三次分裂の中核・革マル両派の対立点の一つが、六二年五月の三河島事故をうけての動労運転保安闘争における二段階戦術をめぐる論争だったとされている(黒田『日本の反スタU』)。「広く大衆運動として運転保安闘争を闘い、闘争の一定の集約段階で指導部の裏切りを暴露し革共同の立場・方針を公然と訴える闘争方針」は大衆運動主義的誤りであると黒田・松崎が批判し、その是非をめぐり、分裂した。この批判のなかから、革マルは「組織戦術」を緻密化していく。

 動労革マルは動労内社民左派の「政研」に加入戦術をとり、もうひとつの社民フラク「労運研」を排除して動労内多数派になりあがっていく。松崎は動労関東地評事務局長として機関助手廃止反対闘争、マル生粉砕闘争を組織し、東京地本書記長として六九−七〇安保闘争を組織する。

 七五年のスト権ストでは動労東京地本委員長として八日間の空前のストライキを組織するが、敗北する。スト権スト敗北を機に、動労本部中執に占める革マル派の数は急増し、最終的には七七年の水上大会で「政研」派が動労本部の多数を制する。七九年には中執全員が革マルないしは「政研」メンバーで占められるにいたる。スト権スト後、革マル派は動労青年部、東京地本のみならず動労本部におけるヘゲモニーを確立していった。

 大衆運動が敗北し後退すると革マル組織が拡大するという事態は、六九−七〇安保闘争敗北ののちにも起こった。対権力・対資本の闘いで労働者人民が敗北すれば、その敗北した労働者人民の背後から革マルが襲いかかり、弾圧とテロで傷ついた部分をたたき出して機関をのっとり、「革マル拠点」にしてしまう。こうして権力・資本の攻撃といっしょになって戒厳令を敷き、権力・資本と闘わない路線に転換させ闘いを廃墟化させるのが革マル派だ。

75年スト権スト敗北と78年動労津山大会

 七五年スト権スト敗北を反革命的に総括した松崎は、”貨車輸送が減少しトラック輸送に振り替えられていく「モータリゼーション」の進展は避けられない”として、合理化反対の旗を降ろし合理化計画に対する「対案運動」(合理化反対ではなく、その緩和・縮小要求運動)に転換する。その転機となったのが七八年の動労津山大会である。

 この大会で松崎−動労革マルは「貨物安定輸送宣言を決定し、ストライキ対象から貨物輸送を除外する方針を明らかにした。同時に「三里塚絶縁宣言」を決定し、反対した動労千葉に七九年三月、執行権停止の処分をくだす。動労千葉はこの処分に屈せず、組織的に分離・独立をかちとった。

 「貨物安定輸送宣言」を皮切りに、松崎は国鉄当局の合理化攻撃の先兵となる道を選択し、戦闘的国鉄労働運動の敵となって国鉄労働者に敵対する。

 八二年七月の第二臨調「国鉄分割民営化基本答申」を前後して、松崎は当局の合理化攻撃をどしどし受けいれ積極的に推進して、国鉄分割民営化の組合側の推進勢力として登場する。

 同月、動労本部は「ブルートレイン添乗旅費」一括返済方針を決定する。

 八四年二月のダイヤ改訂では当局から提案された「余剰人員」対策としての「派遣、休職、早期退職」の三本柱合理化案を受けいれ、積極的に推進した。

 この過程で、合理化反対をかかげて闘う国労や動労千葉、全動労に対抗し、松崎−動労革マルは「働こう運動」を推進し、鉄労とともに国鉄内で積極的に分割民営化を推進する勢力を形成した。

 解放派は七三年革マルの神大夜襲に対する反撃の闘いをもって開始された革マル解体・絶滅戦を断固として闘いぬいてきた。七五年六・二四反革命−石井同志虐殺をもって革マルを反革命として規定し、彼らを革命的テロルで打倒する戦闘行動に連続的に決起した。七七年二・一一同志中原虐殺に対しては、全党・全潮流・全軍総決起をもって実質書記長藤原打倒の四・一五戦闘を筆頭に革マルをつぎつぎと報復のテロルで打倒していった。

 またこの七〇年代は同時に、総評青年協闘争をめぐり、解放派と戦闘的労組青年部は動労革マルの敵対・襲撃を文字どおり実力で粉砕し、革マルの反革命性・反労働者性を赤裸々に明らかにした。

 八○年には革マルの解放派労働者襲撃に対する報復戦として、九・二二動労小谷せん滅戦を闘いとった。小谷せん滅は異様な衝撃をもって権力、国鉄当局、革マル、諸派にうけとめられ、以降の動労革マル(−JR総連革マル)打倒戦闘の突破口を切りひらく戦闘となった。

 松崎は国鉄分割民営化の反革命先兵として突撃し、「冬の時代の労働運動」基調のもと、”「国策」としての国鉄分割民営化には反対しても勝てっこない、分割民営化に反対するのは敗北主義だ”として、分割民営化を積極的に推進し国鉄労働者を大量に解雇する攻撃の手先となって国鉄労働運動に敵対し、そのなかで革マル組織の拡大をめざす方針をとった。分割民営化反対を闘う国労、動労千葉、全動労などの組合に権力・資本と一体となって暴力的に襲いかかった。

 松崎は党派としての革マル内部でも合理化推進の「日の丸労働運動」を推進し、松崎を見ならって「酒とゴルフの労働運動」に明け暮れる「ダラ幹」どもで革マル労働戦線は満たされた。

 八七年四月、国鉄分割民営化が強行された。反対する国鉄労働者はJR各社から一斉に排除され、動労革マルが優先的に選別雇用された。自殺した国鉄労働者は二百名を超え、二十万を超す国鉄労働者が職場を追われた。革マルは労働者階級の裏切り者として、だれにも明らかになり、プロレタリア革命闘争にとっての革マル解体戦の死活的重要性が鮮明になった。七三年以降の対革マル死闘戦に対して「内ゲバ」としてどちらかといえば批判的に見ていた労働者人民の中にも、対革マル戦支持が圧倒的に拡大していった。

 革命軍は八七年十月、JR総連革マル分子荒川をせん滅(のちに死亡)し、以降の連続的なJR総連革マルせん滅戦の口火を切った。

「賃プロ主義」の台頭

 八七年四月の分割民営化をまえにして、二月には鉄道労連を結成、松崎は東鉄労の委員長に就任する。鉄道労連内部では鉄労系と動労系が激しく主導権争いをくりひろげ、七月には鉄労系の分裂計画が革マルに察知され頓挫し、動労系が主導権を握るにいたる。八九年には鉄道労連がJR総連に、東鉄労がJR東労組にそれぞれ改称する。

 九〇年になると、解雇された一〇四七名がJRに採用されなかったのは不当労働行為にあたるとして地方労働委員会はつぎつぎにJRへの採用を命じた。だが、JR各社はこれを拒否する。松崎−JR総連は「再雇用反対のためのスト権(!)の再確立」方針を打ち出し、「JR総連へのスト指令権の委譲」を提議した。これに反発した鉄労系は、JR東海労租JR西労組、JR四国労組、JR九州労組が次々にJR総連を脱退し、九二年五月に新たにJR連合を結成する。JR総連はJR東日本、JR北海道、JR貨物で多数派組合を維持したが、ほか四社では少数派組合となった。

 革命軍は八九年十二月、JR総連総務部長田中豊徳を打倒した。さらに九三年八月には、JR貨物労革マル中村辰夫をせん滅・打倒した。

 この時期に、松崎−JR総連革マルが進める「酒とゴルフの労働運動」に反発するグループが、革マル労働者組織内部に形成されていく。やがて黒田から[反スタ魂の抜けた賃プロ魂注入主義(賃プロ主義)」と呼ばれることになるグループである。

 八九年三月春闘総決起供会で、”原則的な思想闘争を拒否し組織の「厳格さ」に反発する傾向”への批判が提起された(「三・五提起)。「賃プロ主義」の初期の現れであった。

 「賃プロ主義」は九一年春ころから革マル組織を制圧し、九三年夏ころまで革マル組織の実権を掌握しつづけた。「賃プロ主義」は、JR総連革マルにならって「冬の時代の労働運動」の名のもと合理化反対の姿勢すら示さず合理化を積極的に推進する部分を、「組合主義的偏向」と規定しその打倒を推進した。その標的は松崎であり、JR総連革マルであった。

 九一年六月には反革命通信紙上に「ダラ幹松崎」と松崎を罵倒する論文が掲され、「組合主義的偏向」と見なされた産別革マルが拉致・監禁されて自己批判を強制される事態が続発した。九二年三月には沖縄の教労革マル高橋利雄が内部テロで殺害された。九二年五月反革命政治集会では、森茂、土門、朝倉、山里、西條の五人の中枢指導部が演壇にひき出され、それぞれ自己批判を強制された。九二年七月には沖縄革マルの創始者=山里が拉致・監禁され自己批判を強制される。沖縄の革マルはこれに一斉に反発、山里救出に動き沖縄派遣の中央派革マル革マルと沖縄現地で暴力的に衝突する事態となった。

 「賃プロ主義」の革マル支配は、九三年七月、突然終わった。黒田が松崎路線支持を表明して、「一匹オオカミ的・はねあがり的闘争スタイル」の「左翼急進主義的傾向」と批判された「賃プロ主義」者は一掃された。

「賃プロ主義」の一掃

 「賃プロ主義」は一掃された。しかし、沖縄革マルの黒田−革マル中央への反発は激しく、「賃プロ主義」が一掃されたのちも独自行動を強め対立は激化していった。黒田は沖縄に中央労働者組織委員会メンバーであるJR総連革マル指導部を派遣し説得にあたらせたが、逆に彼らは沖縄革マルに同調し中央に反旗を翻した。JR総連革マル指導部は責任を追及され拉致・監禁−自己批判を強制された。その一人上野孝は海外逃亡し、九八年逃亡先のオーストラリアで客死している。

 沖縄革マルの集団脱落が発生するなかで、黒田をもってしても沖縄革マルを抑えきれなくなり、松崎が収拾に乗り出す。松崎はJR総連革マルを抑えこむことをとおして、沖縄革マルをも抑えこんだ。

 革命軍は、革マル中枢・沖縄革マル・JR総連革マル・学生革マルを貫く革マルの組織的混乱と崩壊的危機を衝き、九六年五月十四日、國學院大学で学生組織委員会指導部五十嵐を打倒した。

 黒田はこの敗北と組織的混乱の責任をとり九六年十月、議長を「辞任」した。

革マル「非公然」アジト摘発と神戸謀略運動

 九六年八月、警視庁は革マル「非公然」アジト=綾瀬アジトを摘発した。押収資料を分析した権力は、いぜんとして松崎が黒田と並ぷ革マルの最高指導部であると発表した。

 革マルの「非公然」アジトが、九八年一月の豊玉アジトにつづき、同年四月浦安アジトも摘発された。ともに革マル「非公然」部隊の軍事アジトであり、豊玉アジトはJR総連革マル専従林和美が居住していたマンションであった。この後も毎年のように革マル「非公然」アジトが摘発されつづけ、革マル組織は権力の手のひらで丸裸にされ、その分、革命派破壊のために権力に忠誠を示すことでよりいっそうの屈服と走狗化を深めた。

 革マルは、九七年五月に神戸市で発生した「連続児童殺傷事件」を権力の謀略だとでっちあげ、「神戸謀略」論デマ運動を党派の総力をあげ組織した。「神戸謀略」論のあまりの荒唐無稽ぶりに、革マルは労働者人民から総スカンを食らった。「謀略」論でっちあげのための住居侵入や窃盗などをくりかえした革マル「非公然」部隊は指名手配され、革マル中央の軍事担当「鬼塚龍三」=塩田明男も逮捕された。指名手配された「非公然」メンバー全員が、逮捕されるかないしはその多くは自首して逮捕された。

 これだけの打撃を受けても革マルが神戸謀略運動を組織するのには理由があった。それは、九六年五・一四戦闘で五十風が打倒されたこと、黒田が議長を「辞任」したこと、 「非公然」アジトがつぎつぎに摘発されたこと、そしてJR総連革マルが危機におちいり、JR東日本労政が松崎−JR総連革マルをかならずしも偏重するものではなくなる動きがでてきたといった事情のためである。

 さらに、九五年九月「マロウドイン大宮秘密会議」が革マルに察知され、JR総連−JR東労組内の旧鉄労系組合役員の革マルからの離反の動きが明らかになった。十二月には旧鉄労系組合員がJR東日本新潟支社を中心に集団脱退し、新組合「JRグリーンユニオン」を結成した。JR東日本の「リーダー研修」が反JR東労組の内容でやられているとしてJR総連が中止を要求するなど、革マルとJR東日本資本との蜜月関係が崩れはじめていたことがある。

 革マルには、鉄道事故を謀略だとでっちあげて(中には革マルの自作自演と思われる「鉄道事故」もあった)、戦後の三大鉄道謀略事件(下山、三鷹、松川事件)のように革マルが謀略でねらわれている、弾圧されている、だからJR総連を守れという、その事例として神戸謀略運動をでっちあげる必要があった。神戸謀略運動は、党派としての革マルがJR総連革マルを総力をあげて支援するためにでっちあげたデマ運動である。松崎は黒田なき後の革マル中枢に位置して、このデマ運動を精力的に指令し組織し、JR総連革マル組織の延命をはかった。

革マルの「松崎−JR総連は革マルではない」デマ運動

 二〇〇〇年一月から五月にかけて、革マルがJR総連革マルの集会事務所、社宅などに集団でおしかけ、松崎講演を掲載したビラやパンフの配付・受け取りを強要したため、JR総連革マルと口論・もみ合いになる事態が頻発した。

 同年十月には、JR総連加盟のJR九州労革マルが集団で九州労を脱退し、JR連合系のJR九州労組に加盟申請するという事態が発生した。九州労組はこの申請を拒否、個別審査で加盟の可否を回答するとしたため、JR九州労の革マルは、集団的加入戦術(なだれこみ戦術)が失敗したと総括して、九州労残存組とともに新組合「JR九州ユニオン」を結成、同労組はふたたびJR総連傘下に舞い戻った。これを主導したJR九州ユニオンの委員長小椿は、なんの批判も処分も受けることなくJR総連執行副委員長の要職についた。これは革マルが党派として意思一致して、九州労内革マルがJR九州労組に加入戦術を行使したということを示している。

 小椿をふくむ九州労指導部四人を「裏切り者四人組」「反党陰謀分子」とまで規定しののしった革マル(反革命通信〇一年一月十五日付 一六五一号)は、松崎が指示し実行させた「集団的加入戦術(なだれこみ戦術)」をひとりJR労研指導部の責任に切りつめ、逆に「JR東労組会長の組織運営が独善的だ」と批判した南雲をふくむJR労研指導部を責任追及した。しかし、革マルは当の「JR東労組会長」=松崎は全面的に擁護しぬいた。

 同年十一月には、JR労研指導部の坂入(=南雲)が革マルに拉致され、〇二年四月まで一年半にわたって監禁され自己批判を強要される事態が発生した。革マルは坂入はほかのJR労研指導部と一緒に九州労のなだれこみ戦術を指樽したメンバーだとしている。

 この一連の過租でも反革命通信は九州労指導部とJR労研指導部を口汚くののしり、JR総連小田執行部を「階級敵」とまで規定しその打倒を宣言したが、松崎だけは一言も批判しなかった。

 反革命通信〇〇年十月三十日付一六四二号では「痛苦な事に、退職したJR総連OBメンバー(南雲)が『会長は過去の人だ』などとほざいて、JR総連下部メンバーに反感を植え付けるということをやっている」「JR総連傘下の各単組内においてヘンなことをやっている自己に負い目を感じて、このヘンな自己を正当化するために 『会長は過去の人だ』とか、『山本勝彦は変質した』とかいう言辞をふりまいているのかもしれない」と書いている。「会長」とは松崎のことであり、「山本勝彦」とは黒田のペンネームだ。

 この事態は、押しかけ戦術も、九州労組への加入戦術も、坂入拉致もすべて松崎が黒田と確認して仕組んだものだったということを物語っている。黒田と松崎が共同で書いた脚本にそった「JR総連革マルは革マルではない」「党派としての革マルから脱落・分裂した」というアピールのためのマヌーバー(政治的術策)だったにすぎない。

 つき動かしたものは九州労の組織的危機(革マル自身が認めるように「『平成採用』の組合員が、これまで二千人中わずか九人しか獲得できていない、このままでは『五年後には組合員が半減する』」という危機的状況にあった)ということもあるが、権力・資本がJR総連革マルを分割民営化攻撃の走狗としてはすでに用済みだと、使い捨て攻撃に出てきたという事情がある。

 権力は〇二年の浦和電車区事件に関連して、JR総連革マル七名を逮捕・起訴した。〇七年七月に「七人全員有罪」の一審判決が出ると、JR東日本はうち六人を懲戒解雇処分にした。また〇五年には、組合資金「業務上横領」容疑で松崎にガサを入れた。

 JR東日本は合理化攻撃を強め、「ニューフロンティア」合理化による「契約社員」の導入と業務の大幅な外注化、前号第一回で既載の「ライフサイクルの深度化」につづく一二年実施予定の「新人事・賃金制度」などの合理化攻撃は、革マルによるJR総連の反革命支配の足下を掘り崩す攻撃であり、配置転換、賃下げを資本の意のままにおこない、労働者の団結をバラバラにし闘いを破壊する攻撃である。JR総連革マルはこの攻撃に屈し、JR東日本の革マル偏重労政の転換策にずるずる追いつめられている。

嶋田グループの分裂と松崎の死

 一九九五年の「マロウドイン大宮秘密会議」に参加していたJR東日本社員の昇格入事を、二〇〇二年に松崎が拒否した。順法闘争を構えてでも阻止するという松崎と、「JR東労組に順法闘争をやる力はない」と反発する副委員長嶋田の対立は激化し、〇二年十一 月に嶋田派は八名の本部中執が一斉に辞任した。

 松崎は、嶋田派の拠点地本−新潟、長野、横浜、千葉の各地本を上からの官僚統制で中央本部に従わせようとした。抗争は〇六年には長野地本を組織処分するまでにいたり、その後は残る新潟地本もJR労組加入に向かった。〇〇年の加入戦術失敗でJR総連に戻っていたJR九州ユニオンは、嶋田グループと連絡を取り合っているとして組織処分が決定された。〇六年には九州ユニオンはJR総連脱退を決定し、総連から除名された。

 JR総連は、九州労問題、JR労研問題、浦和電車区事件、権力の逮捕とガサ、JR資本の合理化攻撃、嶋田グループの脱退などで組織的に大混乱に陥った。このJR総連革マルの危機を見てとったJR東日本会社は労政見直し−JR総連偏重労政転換の動きを強めている。

 JR連合との組織化合戦でも、JR連合七万八千、JR総連六万九千と九千の差をつけられており(JR連合「二〇一一年度運動方針案」)、その差はますます開いている。さらにJR東日本は管理職を組織した「かんり部会」一万の組合員をJR総連から脱退させるというどう喝を加えている。

 こういう八方塞がりの状況のさなか、松崎が死んだ。松崎が生涯をかけて作ってきた動労革マル−JR総連革マル組織が瓦解の危機にあるなかでの死であった。

 松崎の死は、この状況に照らすと、つぎのような事態を生みだすだろう。

 第一に、JR革マルによるJR東労組の反革命支配の崩壊である。JR革マルの組織は、権力・資本との闘いのなかから作ってきた団結ではない。国鉄分割民営化という国家権力頂点からの国鉄当局の強攻撃のお先棒を担ぐことでほかの労組を排除し、その後釜に革マルが座ることでJR内に革マル組織を作ってきた。JR革マルがやったことは、当局の合理化攻撃にそって、たとえば「派遣、休職、早期退職」の三本柱合理化案に従い、この合理化攻撃を拒否して闘う国鉄労働者を集団でつるしあげ暴行して退職を強要する一方で、”"優良社員”として処遇されることを目標にただ黙々と働いた。それ以外は、黒田や松崎の著作の学習活動を続けてきたにすぎない。そういう団結が、敵のより熾烈な合理化攻撃をまえにして、闘えるわけがない。闘えないガランドーな組織をかかえたJR革マルは、JR資本の攻撃に対してより深く屈服し、より強固な反革命の手先としての生き残りを模索するしかない。これこそ戦略的に総破産したみじめな反革命の姿だ。

 第二に、黒田と松崎という革マル創成以来の最高指導部二人が相次いで死亡した。それに代わる次の指導部はいない。スタ組織の常で、黒田も松崎も決して「ナンバー2」を作らなかった。少しでも自分の地位を脅かすと見た指導部は、徹底して粛清・排除してきた。そのツケがいま回ってきた。黒田亡き後の革マル組織と、松崎亡き後のJR革マル組織は、いま驚くほど似ている。進められているのは、洪水のような個人崇拝の賛辞のなかでの追悼活動であり、著作の発行と学習活動である。つぎに何をなすべきかを誰も言わない、言えない。もう先が見えたという暗澹たる雰囲気が組織全体を包んでいる。

 第三に、革マルとJR革マルの相互関係が変化している。これまでは、運動方針をめぐって、また組織建設方針をめぐって、どれだけ対立しようとも、最後は黒田と松崎の間で手打ちして事を納められるという暗黙の前提があった。いま、その前提がない。革マルとJR革マルの相互関係は、先に見たように、不断に対立と相互依存をくり返してきた歴史であった。分割民営化方針をめぐって、「賃プロ主義」をめぐって、沖縄革マルをめぐって、それぞれ深刻な対立をもたらし、分裂不可避のギリギリの事態にいたったこともあった。それでも分裂にいたらなかったのは、革マルとしての党派的一体性が維持されたからであり、それが黒田と松崎という人格的関係にも支えられて、可能となっていた。いま、それがない。ほかの誰もこの関係を代行できない。

 今後、革マルとJR革マルの相互関係は、対立が激化し分裂的事態へと向かう動きが強まるだろう。JR革マルとの分裂は、革マルが第三次分裂以降営々として作りあげてきた反革命組織建設の総破産である。この危機を衝いて、二・一一報復の革命的テロルを反革命革マルにたたきこみ、解体・絶滅しなければならない。



 (→ 第3回 革マル労働運動批判と解体戦方針 )


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